始まりの日


 ここホルムで神殿に奉じられている神は、大河の神々の末子にして人間の救い手、聖なる神にして囚われし河の娘、アークフィアである。ハァルに処分されかかったヒトの助命を嘆願して自分は永遠の牢獄に囚われることとなった自己犠牲精神の塊であるアークフィアは民衆の素朴な信仰心の対象としてうってつけで、彼女の名を冠する、いや彼女そのものである大河のほとりに位置する町や村々ではアークフィアを奉ずることは決して珍しいことではなく、むしろ父なる神よりも多くの信者を抱えているであろう。故にホルムがアークフィアを崇拝することも決して不思議ではない。
 大河の女神アークフィアを祀る者も父なるハァルを祀る者も天秤のキューグを祀る者も、皆等しく大河の神々に帰依するものである。であるからして我々――いや、自分はもう違うのであろうが――は同じ信仰を持つ同志と言えるが、一方で崇める神によって教義や習慣には少なからぬ違いがあった。かつて自分がいたユールフレールでは太古の神々を打ち破ったハァルにあやかり信者を脅かす外敵の排除が重視され、異教徒との戦いのために国家のものと比べても遜色のない規模の軍隊を保有していた。かくいう自分もそのうちの一人であったが、そのような意識のままホルムに来ると感覚の違いに驚かされることとなる。代表的な異教徒の国メトセラ教国とネス公国が国境を接することがないからか、あるいはかの地が西シーウァとの国境近くに位置するため争う相手と言ったらまず同じ信者を思い浮かべるからかは知らないが、神殿軍などという存在はあの日までどこか遠いものだったと彼は語った。アークフィアを信仰する者にとって――あるいは彼自身にとってのことかもしれないが――最も重視される教えは、ハァルのような闘争ではなく、キューグのような裁きでもなく、アークフィアのような救済であった。全ての人間が罪を赦されてここに在るのはアークフィアが身代わりとなったからであり、故に我ら赦されし者は女神の教えを守らねばならないと老いた巫女長は信者に説く。信仰のために剣を捧げる神殿軍は赦されざる者を排斥することこそが神への帰依の証立てであると説いた。ホルムに派遣されてやってきた当初は異教徒の領土から遠いこの地で救済の二文字を聞く度にどことなく子ども騙しのように感じられあまり馴染むことができずにいたのを覚えている。救うためにはまず己を守らねばならないのだ――野蛮な敵を排除し、脅威に打ち勝つことで初めて身の安全が守られる、救済も何もまずはそれがなければ何もできはしないと自分は考えていたし、信じていた。誰かの故郷を守るため、信者を守るために剣を振るう。そうやって神の道を邪魔する者どもの血を捧げればいつかは救われると教えられ、その教えに殉じてきた。かつて自分を支配したメトセラとの戦いにおいては己の身が義憤で満ち溢れるのを感じた。だが、自分が一瞬で切り捨てた若い兵士が、母とも娘ともあるいは恋人ともとれる女の名を呟きながら崩れ落ちていく姿を見たときに、ミルドラの埋め込んだ原罪の一つ、疑念が心に生じたのだ。
 彼は救われなかった。
 同僚やあるいは本殿の神官にそう伝えれば「異教徒の魂は天に導かれることはない」と説くだろう。事実自分もそう思っている。しかし過去にメトセラの軍に身を置いていた自分は彼が本当は唯一なる神を奉じる地の出身ではないかもしれないことを知っている。「仮に彼が心の中では大河の神々を祀っていたとしても、異教の者に荷担してしまったことが罪となるのだ」と己の頭蓋で清冷なる神官の囁き声が木霊する。ああそれならば私もそうではないのかいくら剣を振るったところで救われることはないのか。「いいや汝は救われよう、その剣が神のために積み上げし罪人の骸の数だけ救済への道は近付くであろう」と自分が信じる神官が――神、ではない――命ずるがまま異教徒を屠り、戦いが終わった跡に転がる同志の屍に祈る。「彼はハァルの御許に赦されて旅立った」「いいや信仰心が足りなかったので死んだのだ」と、神官を象った何かが欺瞞で心中を覆い隠す。
 侵略されたら救われることはないと分かっていたからハァルに従った。しかし、血溜まりの中に立つ自分が本当に救済される日が来るのかどうか常に不安で、だからこそ更に命じられるまま神殿の敵を討ち果たす。それ以外の道を知らなかった。殺すことで救いを求め、殺すことで罪を負った。
 私の罪が具現化した黒い蛇に呑み込まれようとしたとき、これが己のしたことの報いだと悟った。私に与えられるのは救いではなく罰であると、理解した。
 だがお前は、俺を救った。


「メロダーク!」
 清浄な空気を湛える神殿の中に彼のよく通る声が響いた。日の光が差し込む参拝所から振り返ればこちらの方に心持ち早足で駆け寄ってくる姿があった。
「どうした」
「ごめん、えーと、今ちょっといい?」
 今日は一件入っている挙式の準備で朝から巫女長をはじめとする神殿の者がばたばたと忙しなく動き回っていた。この神殿に厄介になっている自分もまた彼らの手伝いで聖堂の椅子の出し入れをしていたが、優先順位は言うまでもない。
「ああ」
 抱えていた長椅子を下ろすとエメクはわずかに申し訳なさそうな顔をして告げる。
「あのね、えっと、今日の朝気づいたんだけど、どうも俺花屋に注文するとき来賓の数間違えてたみたいなんだよね。ちょうど十足りないんだ。本当は俺が行くべきなんだろうけど、もうそろそろお二方が準備にいらっしゃるだろうからここを離れられないし。だから、それ終わってからでいいんだけど、もし暇があったら……」
「わかった」
 エメクは最後を言いにくそうに言葉を濁したが、私は迷うことなく了解した。彼の望むことならば断る道理はなく、私が彼に従うのは当然のことなのだが、エメクは毎回その理をまるで宝石よりも貴重なものであるかのように受け止める。
「あー、良かった。ありがとう、メロダーク」
 不安げな顔が一瞬にしてにこやかな笑顔に変わり、彼は礼を告げる。彼はいつも私が命令を受諾する度にほっとした顔で感謝の言葉を述べる。自分自身別にそれが嫌なわけではなかったが、一方で未だに少なからず戸惑う自分がいる。今まで降り積もった違和感が形を為し言の葉に生まれ変わり、口をついて出る。
「……礼を言うことではない」
 人が神に仕えるとき、人は神に感謝をされたいと思って尽くすのだろうか? いいやそうではない。神に忠誠を誓うことが義務であるから尽くすのだ。だからエメク、お前が俺に礼を言う必要などないのだ。むしろ、言うべきではないのだ。
 しかしエメクは私の胸中など素知らぬ様子で――いや、あるいは全て見通しているのかもしれない――、笑みをほんの少し歪ませて答える。
「……お礼ぐらい言わせてくれたっていいじゃんか。減るもんじゃなし」
 しまった、と思った。
「いや、俺は一向に構わないのだが――」
 失言をした、と自分を責める。何もエメクに口答えしようと思っていたわけではないが、結果的にそう受け止められる表現をしたことを悔いる。自分の意図を的確に表すことの出来ない言葉がもどかしく、知りうる限りの語彙を頭の中でこねくり回して正確に組み立てようとするがどれもこれも何かが足りないように感じられ、結局は弁明が形になることはなかった。
「メロダークにはいつも助けてもらってるしなー、大体肉体労働任せちゃってるし、境内の掃除もしてもらってるし、最近は子どもの相手もしてもらって…………あれこれ本当に俺なにかお礼しなくちゃまずいんじゃないか」
 俺メロダーク頼りすぎ?と若干焦ったように聞いてきたのでそんなことはないと即答するが、エメクは納得がいかないようで考え込む仕草をする。頼るも頼られるも、そういうものだろうに。
「本当、無理しないで嫌なら言ってくれていいから。っと、そろそろ新郎新婦がいらっしゃるだろうから、またあとで」
 控え室へ駆けていく彼の後ろ姿を見送り、下ろした椅子を再び持ち上げて移動しながらこの仕事があとどれくらいで終わりどれくらい後には花屋に行けるだろうかと計算した。
 エメクの私に対する扱いは、少なくとも表面上は神殿の探索者と雇われた傭兵であった頃と変わらないように思える。遺跡の中で彼は私や仲間に対する気遣いを忘れることはなかったが、私が彼に帰依すると誓ったあとでもそれが変わることはない。やっと手に入れることのできた神聖なる正当性の権限は、人の形をして人の心を失うことなく、私を人として扱う。それによって私の信仰心が失われることは微塵もないが、勝手の違いに戸惑うことはときどきある。神は崇め奉り忠誠を誓い従うべき対象だ。正しいと確信している物に全てを預けることはいかにも簡単でそれでいて心が満たされる素晴らしいことだ。しかし私の神は神であると同時に人でもある。人としてのエメクは、人としての私にとっていかなる対象であるべきだろうか。


 悠久の時を流れる大河の前で一組の男女が永遠を誓い合う、荘厳かつ神聖な儀式が終わった頃には日は沈みかけていた。神殿のぜんまい式の時計の短針はまだ五の字にも到達していなかったが、この頃はめっきり日の入りが早い季節だ。
「お疲れ、メロダーク」
 肩を軽く叩いて労いの言葉をかけてきた彼を見やれば片手には一杯の葡萄酒が掲げられていた。それを半ば押し付けるようかに渡されたのでありがたく頂戴するとエメクは満足したように私の隣に腰掛ける。
「……お前も、疲れたろう」
「そりゃもう疲れたよ」
 はは、と彼は笑い、天井に両腕を高く伸ばして背筋を伸ばすと骨の動く小気味よい音が響いた。
「でもまあ、幸せ疲れだからいいかな。結婚式はいいよね、みんな笑顔で美味しいものを食べて祈りを捧げて歌って――いい仕事だ」
 民の暮らしと共にある神殿は信者の人生の節目節目に居合わせて祭礼で彼らの通過点を彩る。新しい人生の門出である結婚の執り行いは数ある神殿の役割の中でも一番重要で、一番恵まれた仕事と言っても良いだろう。誰に向けて懺悔する必要もない、贖いを求めて苦しむこともない、平和の象徴ともいえる光景だ。
「……そうだな」
 エメクが神職に就く者としての暮らしを甘受して全うし、日々の役目を笑顔で果たしていることが何よりだと思う。それを助けてくれるのなら、結婚式は確かにいい仕事だ。
「……そういえば、気になったんだけど」
 何でもないことのように彼は続けた。
「メロダークは結婚しないの?」
 あまりに唐突な話の転換に返す言葉を一瞬失う。確かに今の話題の中心は結婚式にあったが、それが自分に向けられるとは考えていなかった。私が彼の意図をはかりかねて返事を躊躇っていると、その意を推し量ったかのようにエメクが説明を付け加えた。
「や、別に特に深い意味はないんだけど、メロダークもぱっと見適齢年齢っぽいしそういうのもありかなって、あ、ひょっとしたらあっちに恋人がいるとか……」
 おそるおそるといった様子でこちらを見上げてくるエメクは自身の思いつきを真剣にあり得ることとしてとらえているらしいが、こちらにしてみれば仮にも神殿に仕える身である彼がそんな発想をすることが信じられなかった。これが学者の言うところの文化の違いというやつなのだろうか。
「…………ホルムではひょっとしたら無きものとして扱われているのかもしれないが、西方では基本的に聖職者は婚姻・性行為を禁じられている。私の所属していた、神殿軍の人間も例外ではない」
 ああ、と彼は短い声をあげた。
「いや、無きものってわけではないんだけど……まあ、場合に応じて、みたいな。そっか、やっぱりそこらへんもあっちはきついんだ? 軍人なんかいかにも例外にしてくれそうだけど……」
「私は戒律を遵守した」
「……なるほど」
 エメクは短く相づちを打つとじっと私を見て、深く納得したようだった。私はこの際に浮かんだ疑問を彼に問いかけることにした。
「ホルムでは在俗の神官というわけでもないのに妻帯する者が多いな。アークフィアはそれを許しているのか?」
 ユールフレールでも勿論戒律を素直に守っている者ばかりではなかったが、それでもあからさまに伴侶や子の存在を明言する者はいなかったように記憶している。しかしホルムでは神官の子という存在が普通に受け入れられていることが不思議であった。
「うーん、許しているかと言われるとあれだけどな。でも現実問題、何もしなくても学僧が集まってくる有名どころと違って田舎だとそれが難しいところもあるから……神殿の維持のためには跡継ぎって大事だからさ。跡継ぎのために結婚するのかと言われるとそれもちょっと違うけど」
 現実問題、と彼は言ったが世俗のことで教義が時に変化することが私にとっては馴染みが無く少し考えづらい。いつだって教えのために生き教えのために俗世の戦争に身を投じ教えのために現実の領土を変えてみせるのが使命だった自分に欠けていた感覚かもしれない。
「まあ、アークフィア様も結婚してるし、いいんじゃないかな」
「結婚?」
 初めて聞く話にわたしは首を傾げた。ユールフレールの学識ある僧侶たちに神々の説話は頭にたたき込まれたが、彼ら権威が述べるにはハァルの末子アークフィアは生まれてからまもなくしてハァルに幽閉されたため、他の神々の誰かと結婚したという言い伝えはなかったはずだ。エメクは私の短い問いの要点を掴み答える。
「……ここらの伝承ではね、河の娘が英雄と結婚するという話があるんだよ。それがアークフィア様だって言われてる。もっとも、その話の中ではアークフィア様は男に捨てられてしまって悲しみの涙を流すわけだけれど……だからこそ、僕ら女神の民は永遠なる愛を求めるべきなんじゃあないかな」
 まあ、後半は俺の勝手なこじつけだけど、とエメクは付け加えた。地方によって異なる口承が残されており信仰の形がそれによって形を変えるのは不安定な気もしたが、今の私はエメクが正しいと思ったことだけに従えばいいのだから関係がないといえばそのとおりでもあった。
「で、メロダークは結婚する気ある? するなら是非とも俺に聖杯を掲げさせてほしいのだけれど」
 ホルムの神殿の中で最も老いた僧が愛し合う二人の前で聖杯を掲げながら唱えた、女神からの祝福を請う祈りをエメクは一言一句間違えずに復唱する。異変を解決したホルムの英雄という立場である一方未だ年若い彼は神殿の中では正式には学僧の身分のままであり、神官たちの横について補助をするのが彼の仕事で、与えられたことを粛々とこなしていたが、やはり一度は自分が中心となって祭祀をしてみたいものなのだろうか。神聖なる衣を身に纏い祭壇の前に立って私のために祈りを捧げるエメクの姿を想像してみると存外様になっていたが、祝福を受ける自分の横に立つべき人間は思い浮かばなかった。
「……する気があるかと言われたら、ないな」
 そもそもが女に縁遠い生活をしていたことにくわえ、現況で婚姻が必要なようにも思えなかった。むしろ、私の神に仕える生活にあたっては妻の存在は不要とも言えるのだが、神の考えに私は及ばなかったようだ。
「……そっか。そりゃ残念」
「残念?」
 そんなに式を自分で執り行ってみたかったのか、と一瞬思いはしたがすぐにそんな愚考は取り消す。何故なら彼はそんな自己満足で動くような人間ではなかったからだ。
「できるなら、メロダークが綺麗な奥さんを娶って平和な家庭を築く姿を見てみたかったからさ」
 エメクはまっすぐな瞳で私に告げた。平和な家庭などという自分とは遠い世界を彼が私と組み合わせて見ていることが不思議だった。そして彼が私に妻を、彼以外のなにがしかの人間を勧めてきたことに私は言いようのない感覚を得たが、言語化に至ることは私の技量では出来ない。それよりも彼は見てみたかったと言った、彼が望むことならば、それは――。
「……………」
「あ、いや別にしろって言ってるわけじゃないからね!? これ強制じゃないからね!? 命令じゃないよ!?」
 エメクは慌てた様子でまくし立て私に念を押した。違うのか、と問うと彼は黙って頷く。以前は神の望みと命令の区分などなかったが、今は明確にそれを分けねばならない。自分は未だに至らないことが多い。
「好きなようにしていいんだよ。したかったらすればいいし、したくなかったらしないでいいし、俺の言ったことなんて単なる一意見だしさ。メロダークがしたいようにすればいい」
 したいようにすればいい、という言葉をエメクはよく私に向かって言い聞かせる。私が彼の側で仕えたいと願ったときも同じように、「メロダークがそうしたいなら」といって彼は私を許した。私の望みはただそれだけで他にしたいことなど目下見当たらないのだが――――あえて言うならば、脳裏に浮かんだ質問をひとつぶつけてみることにしようか。
「……お前はどうなんだ」
「ん?俺?」
「お前は結婚しようと思うのか」
 エメクは目を丸くして私を静かに見返しながら、言葉を探しているようだった。私はただ黙って待つ。
「……別に、誰からも止められやしないだろうけど。アダはきっと喜ぶだろうけど」
 神殿の前に流れ着いたエメクを拾いここまで育て上げた巫女長は、彼を甘やかすことはないが確かにしっかりとしたあたたかい愛情を彼に注いでいるのが横から見ていてもよくわかった。彼もまた老婆の愛情を疑うことなく育ての親に対して強い敬愛の念を抱いており、故に一番に彼女の名が出てくるのは実に彼らしいとも言えたが、逆を言えばそれ以外に挙げる具体的な女性の名がないのだろう。
「でも、しないだろうなあ」
 宙を見上げて呟いた声が、広い部屋に響いて静けさを強調する。
「……そうか」
 なんとなく予想していた答えではあったが、それに対する反応をどうするということも決めておらずただ素っ気ない相づちを打つにとどまる。彼はどこを見るともなく続けた。
「うんまあ、色々あるけどさ。そもそも子ども作れるかどうかもちょっと疑わしいし、更に言うなら呪われた血統でもあるし、俺ここで絶えた方がいいんじゃねってのも考えなくもないし」
 墓所の奥、穴蔵の中の小さな町を思い返す。あるべきところにあるべきものがなく、あるはずのないものがそこにある違和感を人体に見出したときに人はどのような感覚を抱くか、私は思い知ることとなった。例えば戦場で片腕をなくした人間など珍しくはなかったが、初めからあるのとないのとではやはり何かが違う。今はもう誰もいない、かつての彼の故郷の住人の姿。しかしそれを理由にして彼が何かを諦めることはあまりいい気分はしない。魔の血が濃くなったのが問題なら全くそうでない娘、たとえばあの幼馴染みなどならいいかもしれないし、仮に血が薄まらなかったとしてもきっとお前の子なら大丈夫だ――そう言いたかったのだが、何かが躊躇われて口にすることは出来なかった。軽々しく平気だと言い放つことへの躊躇かもしれないし、あるいはもっと他の何かかかもしれない。ざわざわとする胸の内はしかし少しも外に出ることはなく、ただ無言で控えていると、更に彼は理由を述べた。
「ただ一番は、俺別居中の奥さんいるからなあ」
 それはあまりに予想外の言葉で、わずかのあいだ自分は微動だにせず固まって驚きに身を任せる。何かの冗談かとも思ったが、彼がここで冗談を言うような人間であるとも考えられず、結局その意図はわからぬままただそのままを聞き返す。
「……………奥さん?が、いるのか?」
 この年端もいかない少年にそのような存在がいるのか、何かの暗喩なのか、別居中とはいかなることか。頭の中をぐるぐると渦巻く疑問は正答を得ることなく回り続ける。
 彼は口端をあげて、神殿から一望できる大河を指差した。
「うん。河の底にね」
 どういう意味なのか、寂しそうな顔で母なる河を見下ろす彼に聞くことは出来なかった。


 その後私が調べたホルムに伝わる『川の娘』の伝承は以下の通りだ。英雄ティタスが川の娘と愛を交わし、川の娘が英雄に宝珠を与えるが、娘の元を去った英雄は都を人々のために打ち立てるものの川の娘のことを忘れ去ってしまう。娘が待ちきれなくなって恋人の元へついに行ってみたところ英雄はすっかり変わり果てており、彼女は怒り悲しみ洪水を引き起こして全てを押し流す。ここまで聞けばいかな私でも、英雄ティタスがかのアルケア帝国の祖タイタス1世のことを指し示していることは理解できる。アルケアが滅びた洪水が、人間が驕り高ぶったことへの罰ではなく恋人に捨てられた女の悲しみの涙であると解釈しているところがいかにも民話らしく、ユールフレールでこんなことを教えるわけもないから自分が今まで知らなかったのも無理はない。しかし、エメクのことを思い返すと、他愛ない民間伝承だと切って捨てることは難しいようにも思える。タイタスの器であるエメクはこの世で一番女神の寵愛を受けた存在であると言っていい。河の底から持ってきた櫂は女神の力が宿っていると彼は私に説明し、秘石を全て返したあかつきには女神から宝珠の欠片を授かったのを私もこの目で見た。そもそも一番の始め、大河に流されて無事に神殿に拾われるところから既に彼は女神に愛されていたとも言えよう。私はそれを、エメクがタイタスを打ち破ることを期待して神が彼に力を与えたのだと解釈し、事実そのようになったのだが、果たして本当にそうだったのだろうか。もし神がただタイタスと彼の国に罰を与えただけだとしたら、ユールフレールがエメクを危険視したように、神もまたタイタスの復活の器を忌むべき者としてとらえてもおかしくはなかったはずだ。しかし神は、ホルムでは地の底から来る白い英雄が伝説として残るほどに流された多くの白子をそのままに――あるいは、守りすらしたのかもしれなかった。エメクに至っては幾度も窮地を救われている。神殿軍から脱した今でこそ思えることかもしれないが、案外と事実は、ユールフレールが伝えることよりもこの地に残る昔語りの方に近いのかもしれない。
 河の底に妻がいると彼は言った。あの夢の河の淵で、鳥に蝕まれる俺のところへと彼は一艘の舟を漕いでやってきた。あの舟は、あの櫂はどこから持ってきたのだろうか。私が彼に直接聞くことはなかったが、答えは既に示されているような気がした。しかしエメクは最もタイタスに近い器ではあるが同時にタイタスを越えし者であり、女神が愛したタイタスその人ではないはずだが、魂だけが残されるあの地で、神ともあろう者が魂を間違えたのか――エメクの言葉が俺の浅はかな推測を否定しているのだった。


「今日は冬至か−」
 暦を見ながらエメクは世間話そのものといった口調で呟いたので、こちらも世間話として応じる。
「……かつては新年の日であった日だな」
「へー、そうなんだ」
「ああ、一年で最も昼が短い日だから、そこを始まりの日として定めたらしい」
「なるほど。確かにそっちの方がおさまりがいい気もするな」
 彼は感心した風に日付を数え、現在の新年の日との差を数えている。どうでもいいことに意外と好奇心が強い彼のことだからこの次には何故今の暦に変わったのかなどと尋ねるかと思ったが彼の興味はそこまでは及ばずに方向を変える。
「あ、じゃあメロダークこれは知ってる?いつだったかキレハに聞いた話なんだけど」
 エメクが吐いた息が白く濁る。
「冬至の季節には、メトセラではお祝いするらしいよ。彼らの神様が生まれた日だったかな?始まりの日だっていうからそれに合わせたのかも。で、家族とか友人とかに贈り物をするんだって。丁度その時期メトセラに居合わせたキレハはそれ見て何だか故郷が懐かしくなっちゃったそうだ」
 メトセラ、と聞いて私はわずかに眉をひそめる。少年兵として彼の地に使役されていた日々の記憶はいまやもう朧気で、そんな風習があったかどうかは覚えていなかった。もっとも、あったとしても奴隷同然だった自分には何ら関係なかっただろうから、覚えていないのも無理はないと言えよう。
「それは…………知らなかったな」
 正直に答えるとエメクはほんの少しだけ笑う。私の人生の半分も生きているかどうかわからないこの少年は、私の知らないことを自身が知識として持っていることが密かに嬉しいらしい。背負ってきたものが違うからか、年の割に達観しているところもある彼が時折見せるこんな表情で、自分は彼が人の子であることを思い出す。嫌なわけではない。むしろその反対だからこそ、自分の中で扱いかねるところが出てくるのだ。
「というわけで。メロダークは何か欲しいものある?」
 どうやら彼はメトセラの行事を一つやってみることにしたようだ。異教の風習を抵抗もなく取り入れるのは聖職者としてどうかと思わないでもなかったが、これは彼の長所の一つである柔軟性の表れだと前向きに受け止める。
「欲しいもの……」
「日頃のお礼にね。あんまり高いものはちょっと無理だけど、俺が買える範囲なら」
「………………ない」
 日々の糧と仕事があり、仕えるべき存在の側に在り、そのために必要な物は揃っている、のだが、目の前の彼は殊更不満そうな顔をした。
「…………まあそう来るかなあとはうっすら思ってたけどさ。けどさ! なんか何でも良いから言ってくれよ聞いたこっちが悲しくなるじゃんか!」
「何でも……」
 何でもといわれ改めて最近の出来事をほじくりかえし、何か困ったことはなかったか、不便に感じたことはなかったか手当たり次第に記憶の中であげつらねていく。やがて、自分が関連する範囲でこれがあったらいいだろうというものを一つ探し当てる。
「……熱でひしゃげて使えなくなったから、新しいフライパンが」
「あ、ごめんそっち方向はナシで」
 ……ナシなのか。
「あーじゃあ別に物じゃなくても、俺にしてほしいこととか」
 既に元となる風習を離れている気がしてならないが、彼にとってはどうやらそれは問題ではないらしい。エメクにとって重要なのはおそらく、自分が相手のために何かをする、ということなのだろう。
「……してほしいこと」
「いやまあ、たいしたことはできませんけどね。もう少し早く起きろとか仕事押し付けるなとか、うん、なんか要望があったら善処はいたしますというか、そんな感じ」
 ていうか俺本当色々やらせててごめん、と改めて彼が申し訳なさそうに頭を下げるのを目の当たりにして私はつくづくと彼の無自覚な光を感ずる。お前はまだこの上、私に何かしてくれようと言うのか。
「欲しいものは、もう貰った」
 救われたいと願っていた。この剣を振るうべき正しい理由を、正しい価値を得たいと心の底から欲していた。罪深き己を赦してくれる大義を求めて人を殺し、そしてまた罪を負う負の連鎖を断ち切ってくれたのは紛れもないお前だ。これ以上お前に何を望もうというのか。
 望んでも、いいと言うのか。
「……?」
 彼はいまいち何を指し示しているのかわからない様子で首を傾げ、自分の与えた物の心当たりを探しているようだった。お前がここで己の光を掲げてそれらしく振る舞えば俺も自分を神に仕える番犬のごとくできるというのに、お前は全てを乗り越えたあとでもただの人として生き俺をただの人としようとするから、あの日俺の心に私欲とも呼ぶべきものが芽生えたのだ。何もかもを赦したお前はこの望みも赦してくれるのだろうか。
「………もし、望めるなら」
 私は欲しい物を得た。私の大義、私の正義、私の救い、私の光。それで十分だったはずなのに、それで十分であるべきだったのに、更に欲してしまったもの。私の。
「この先もずっと、お前の側に」
 エメクは白雪のような髪をわずかに揺らし、林檎のような色をした瞳を少しもぶらすことなく私を見つめる。きっと彼は私の持つ暗い情念を知らない。また、知ったとしても理解はできないだろう。そんなものを一切知ることのない彼であってほしいと思う一方で今こうして許しを請うている自分がいる。ひどく矛盾した話だと思う。私は彼にどうあってほしいのか――いやそもそも、俺のごとき者が彼にどうしてほしいかなどと考えるだけで既におこがましいことなのだろう。
「…………それは、今までと何か違う?」
 まるで幼子に対するかのような穏やかな声が、慎重に私の意図を掘り出そうとする。優しくも賢き彼は私の欲するものを正確に把握して受け止めようとしているのだろう。彼につけいるような真似をしていると感じる一方で、一度漏れ出した感情はただ流れ続ける。
「………………違う」
 神は遠きにありても思うことが出来る。エメクに帰依して最初ここに留まることを決意したのは、彼に仕えるためには彼の近くにいなければならないと思ったからだが、例えば彼が世界中の貧しい者を救うために旅をしろと私に命じたならば私は信者として即座にそれに従うべきなのだ。神の御心のままに行動することが忠誠の証なのだから。
 けれども一方でそれに抵抗を感じる自分が居る。勿論彼の考えに間違いなどあるはずもないから、間違っているのは結局私の方なのだ。改宗してから命を奪う罪を犯すことはなくなった私が新たに抱えてしまった罪。家庭を持つべきだと言われたとき隣に立つ女性の姿が想像出来なかった一方でエメクの姿ははっきりと思い浮かべられた。彼が結婚しないと言ったとききっと私は心の何処かで安堵したのだ。そして彼が河の底の妻の話をしたとき、私は自覚してしまったのだ。
 彼岸で女神に取られてしまうのならば、せめて此岸のこの先だけでも。
「……永遠を誓う」
 滑り落ちた言葉は、あの日の男女が大河に捧げた誓いと全く同じ言葉だった。