「約束してくれ、フラン。もし俺が――」
 はい、いかなる時も、このフラン。あなたの命を胸に、あなたと共に。


命ぜられし


「お帰りなさいませ」
「ああ、ありがとう、フラン」
 帰宅をお迎えして上着をお預かりするといつものように彼の人はあたし以外の者を退出させられる。あたしは主人のお召し物を丁重に同僚の女中に渡してクローゼットに入れるようお願いし、そして主のための椅子から三歩後ろに控える。仕える者と統べる者の、ずっと昔から変わらない位置だ。
「強情な侯に苦労させられることもあったが、なんとか話はまとまりそうだ。大公殿の口添えもあってな」
 キャシアス様とあたしの二人だけの部屋で、キャシアス様がお出かけ中あったことをあたしにお話しするのをあたしはただ黙って聞いている。不断の日常の一部だ。言葉を飾り立てることを恥と考えてらっしゃる節のあるお人だから、人前ではあまりお話にならずにそれで寡黙な人だと思われることもあるけれど、公的なところではない場面では案外お喋りでらっしゃることをあたしは知っている。主の四方山話をお聞かせいただけることをあたしは誇らしく思っていた。
「結局、ラルズーエはグリムワルドの領地となることとなった。平時ならいざ知れず、西シーウァとの緊張がほぐれずに高まる一方の現在では即座に対応出来る位置にある者が治める方が良かろうと――」
 キャシアス様はいついかなるときも冷静沈着でいらっしゃるけれど、決して冷たい人間であるというわけではない。むしろ、人間味溢れるお人である故に、常に理想と現実のすりあわせに苦心していらっしゃった。町に出てはお友達とお遊びになるたび、港の近くの貧しい人々の暮らしに心を痛め、店屋の不景気な話に顔を曇らせる。あちらを立てればこちらが立たず、何事にもメリットとデメリットがあり、そしてそれを吟味した上で何を捨てるかの決断を下さねばならないのが上に立つ者の定めであり、それがわかっているからこそキャシアス様はカムール様とこの町についての議論をするとき険しい顔つきになるのだ。いつもいつでも、政策で不遇な立場になる方を考えてはやりきれないという顔をなさるお方。全ての民衆が平等に満足するような町など夢物語だと分かってはいても、追い求めてしまうお方。お館様はキャシアス様のそんなところを見て甘やかしすぎたと仰っていたけど、あたしは、そんなお人だからこそお仕えするだけの価値があるのだと思う。同じようなことを思っているのはあたしだけではないだろう、町の大部分がキャシアス様を誇りに思っているから、あの人はお忍びで外を歩くこともなく、堂々と民と触れ合うのだ。キャシアス様がホルムを愛するだけ、ホルムはキャシアス様を愛する。ホルムはあたしの故郷ではないけれど、主の故郷をあたしは自分のものと同じくらい好いている。
「勿論、ホルムを防衛するだけでも怪しいものなのに、という反論はあった。それについては全く否定しない。西シーウァとの国境近くでありながら長年の平和にかまけてろくな軍備がされていなかったのは事実だ。ここで意地を張っても仕方ないので、各方面に頭を下げてお力添えを頼み――」
 生まれつきの透き通るような白い肌と、宝石のような赤い目はかつてはグリムワルドの先祖返りだと言われていた。妖精郷伝説に伝えられる英雄はみなキャシアス様のような見目であったと言われていること、そしてグリムワルド家はその英雄の子孫であることをお館様はキャシアス様に言って聞かせ、だから恥じることはない誇りに思えと仰った――。キャシアス様がまるで大切な小物入れを開くかのようにそっとそのお話をしてくださったとき、綺麗な目がかすかに潤んでいたのをあたしは見ないふりをした。不届き者には血が繋がっているかどうか怪しいと揶揄されるぐらい――実際、その通りだったわけだけれど――見た目は全く似ても似つかぬ親子だったけれど、ふとした時に見せる穏やかな笑みが驚くぐらい似通っていたからあたしはあのお二人が実の親子であることを疑ったことはなかった。キャシアス様が大河の子であったことをお聞きしたあとでも、親子であると、あたしも考えているし、あのお方たちもそれに変わりはなかっただろう。ホルムを治めるグリムワルド、その末裔は確かにこのホルムのために生きていた。お側であたしはそれをずっと見ていた。
「各領主に己とは関係ない地方のために負担を強いるのは公平ではないため、誠意と誇りを示すためにまずはホルムが率先して――」
 キャシアス様。あたしの決めたたった一人の主、キャシアス様。あなたは本当にこの町を愛していらっしゃる。あなたがあたしにお話ししてくださったホルムの素晴らしいところ、何一つ忘れていません。このフラン、あなたがどれだけホルムを大切になさっていたことか、誰よりも存じ上げているつもりです。
「であるから、臨時に軍部の中枢機能をホルムに置いて――」
「キャシアス様」
 主の名前をお呼びして、滔々とされていた公務のお話を中断させる。気分を害されるかと思ったが、普段のあたしならまずしないことに彼の人は不快になるよりまず驚いたらしく、振り返るとほんの少しの疑問の色を顔に浮かべながら穏やかに問うた。
「……どうした? フラン」
 他の誰が見ても文句ないに違いない風格を備えた領主に向かい、あたしは静かに、胸を張って答える。
「あたし、キャシアス様にお仕えできて良かったと思っています。キャシアス様はあたしのたった一人の誇るべき主です。レンデュームの人間は傭兵としてそれぞれ誰かに雇われて生きていくのが大半ですが、その中でもあたし以上に主人に恵まれた人間はいないと自負しています」
 うらなく本心をお伝えすると、目の前のお方はやや目を丸くして、指で頬を掻いてみせる。キャシアス様が照れたときの仕草だ。
「――どうしたんだ、急に」
 ある種当然かもしれないお言葉に、あたしはにっこりと笑みを浮かべ、お話の続きをさせてもらう。
「お伝えしたかったんです――このフランは、いついかなるときでも、キャシアス様と共にあり、キャシアス様の意思を実現させるための、懐刀であることを」
 主の座に座る方はあたしを食い入るように見つめ、何を言うべきか考えたのだろう、少しの間を経て真摯な顔つきで返答をされる。
「……知っている。フランには感謝せねばなるまいな」
 キャシアス様らしいお言葉だと改めてあたしは思う。
「いいえ、あなたに感謝されるようなことではありません」
 あたしは主と召使いにあるべき距離を侵し、すっと椅子の横に移動した。目と目が合い、薄く微笑むと穏やかな笑みを返される。
 机の上の公文書にそっと目を滑らせる。キャシアス様にお教えいただいたあたしの文字の知識が間違っていなければ、そこには先ほど聞いたお話の通りに、ホルムを駐屯地としてネスの各領主が派遣する軍隊を置くという主旨の取り決めと侯爵たちの名前が記されていた。横にはホルム自身が出す予定の軍隊の規模も表記されている。異変に疲弊したこの地に取ってその数は多すぎるに違いないのだが、西シーウァに対抗し、この地を守り、付け入る隙を与えないためにと彼の人は言う。防備を完璧にして、そして、攻め入られることのないように、攻め入るのだと。
「ですからあたしは」
 けれど、ホルムに平穏をというお館様の言葉を、キャシアス様がお忘れになるわけがないのだ。
「キャシアス様の、遺志を果たします」
 あたしは後ろ手に忍ばせていた短刀を、主の椅子を占居する者に向けた。


 思っていたよりは手こずったが、それでも遺跡の怪物を相手取るよりは簡単なことだった。相手は武装も何もしておらず無防備な体勢だったのだから考えてみれば当たり前のことだ。その身に宿す腕力は大きな脅威といえたかもしれないが、それもわかっていれば対処の仕様はいくらでもある。反応が良かったため一撃で首を掻き切ることこそ出来なかったが、逸れた刃が右腕の腱を切断した時点でもう勝負はついていたと言ってもいいだろう。腕と足、動くための機能をあらかた停止させた状態で、血の海の中に、キャシアス様の形をした者が倒れ臥している。
「……な、にを……フラン……!」
 信じられない、というような顔をして彼があたしを見上げる。その表情の中にあたしは薄暗い傲慢を垣間見て、安堵と絶望が入り交じった感情を胸に抱く。
「……キャシアス様の仇討ちです。違いますか、タイタス」
 あたしの言葉にそれは顔を強張らせてこちらを見定めるように凝視した。どうやら本当に今の今まで気付かれていないと思い込んでいたらしい。むしろあたしからすれば自分が泳がされているのではないかと不安になるくらいだったのだけれど。全く見くびられたものだと思う。
「どうぞ、地下深くへお帰りを。あなたの欲する肉体も、国も、栄華も、ここにはありません」
 キャシアス様の形をしたものがキャシアス様の声でキャシアス様のように喋るのがこれ以上ない主への冒涜のように感じられてひどく不快だった。己の計画の頓挫を悟ったか、臥する者はもう何も喋らない。その体がもう使い物にならず、あと少しもすれば生命の機能を全て停止することは何よりあたしが一番知っている。どうせ助かりはしないのだからこのまま放っておいてもいいのだが、これ以上この不敬な侵入者が大切なお体を蹂躙しているのを見ているのも我慢がならなかったため、トドメを刺そうと決意する。
 キャシアス様にお与えいただいた服が汚れるのも構わず、広がる血溜まりに膝をつく。使い慣れた短刀を握りしめて、白い首に照準を定めた、そのときだった。
「…………生きろ」
 あたしの主の声が聞こえたのは。
「……え?」
 キャシアス様のような声、ではない。キャシアス様の声だとあたしは瞬時に理解した。
「……フ、ラン。お前は……」
「……キャシアス様? キャシアス様なのですか……?」
 あたしはほんの少し前まで殺そうとしていた体を抱き寄せ、赤黒い血の絨毯から引き上げて上半身を仰向けにして、あたしの膝の上に寄せた。その瞳は血の色をしながらもどこまでも澄んでいて、疑心は確信に変わった。
「…………フラン」
「……キャシアス様……!」
 ああ、ああ、なんということだろう! あたしは己の誇るべき主に手を掛けたくせに、今その体を抱き寄せて、助からないと切り捨てたくせに、名前を呼ばれただけで反射的に止血しようと手を伸ばしてしまう。己の上であたふたとみっともない真似をする愚かな臣を見ていられなかったのだろうこの方はあたしを目で制する。目以外ろくに動かせないのであろうことをあたしは知っている。
 やがて主が力を振り絞って口を開く様を、あたしは一言一句聞き漏らさないよう、息を殺して見守った。
「……フラン、お前には、迷惑をかけた…………」
「……いいえ、いいえキャシアス様。迷惑なんてとんでもございません。あたし、あたしは……」
 言葉が出ない。キャシアス様が己を無くされたときにはその身をもって討ち果たせと、命ぜられたままにあたしは動いただけで、ご命令に従ったのに後悔が尽きない。申し訳ございません、と謝罪が口をつくが、主人は緩く、大儀そうに首を振る。
「……大業をなしてくれた、お前に、これ以上、望むのは、酷なことかもしれない……」
 キャシアス様が、いまわの際になって何かを望むというのならあたしがそれを聞かない道理はない。溢れ出る涙をこらえ、発話の邪魔にならないように呼吸を整えてあたしは続きを促す。
「キャシアス様、どうぞなんなりと。あたしはこの命を全てあなたのために使う所存でございます」
 そう、あたしはあたしの全てをこの方のために使うと決めたのだ。きっとこれがあたしがキャシアス様から与えていただく最後のご命令になる。どんなに無理な言いつけであっても必ず従おう、必ず叶えよう、そう心に誓った。
「…………フラン、死ぬな」
 そうしてあたしが賜った言葉は、あまりにも短くて、切実だった。
「……え」
 命令らしい命令とも言えぬたった三文字が頭の中で反響する。
「……お前は、死ぬ気だろう」
 キャシアス様は眉をひそめ、視線だけを動かして外に繋がるドアを見やる。
「こんな……ところで。寝静まったところでもなく……逃げ道もなく、堂々と俺を殺し……刑に処されるつもりだったか、あるいは、自害するつもりだったか……」
 あたしとキャシアス様以外誰もいないこの部屋は鍵すらかかっていない――当たり前だ、私室でも何でもない食堂なのだから。彼が叫んで応援を呼ぶ間もなく致命傷を与えたため今ここには誰の人目もないが、もう少ししたらきっと使用人がお茶と軽食を運んでくる。別にそれでいいと思っていた。全てが終わったあと、祖父と弟、レンデュームの皆に迷惑をかけたことを心から侘びる文をあたしの亡骸からその使用人が見つけ出す。そのつもりだった。
 一言も返せないでいるあたしにキャシアス様は痛ましいものを見るような眼差しを向けた。
「……生きろ。ホルムは、アルソンに任せろと、ゼペックに伝えて……お前は、生き延びろ」
 それが主の最期の望みだった。主人の忠実な僕はそれに一も二もなくわかりましたと申し上げねばならない。
 それなのに。
「キャシアス様、あたし、あたしは……」
 愚鈍な使用人は主の命令を承諾する旨を口にすることなく、ただ壊れたからくりのように無意味な言葉を繰り返す。ああなんてあたしは駄目な子なんだろう、最愛の人の最期の願いを、あたしは、きけない。
「……お願いです、お願いします、キャシアス様。どうか、どうかこのフランを、果ての果てまでお側にいさせてください……」
 あなたのいないこの世界にこれ以上あたしが留まる訳がありましょうか。グリムワルド家もこれで断絶だ――あたしの愛する、グリムワルドが治めるホルムはもはやないのだ。あなたと共にあたしの大切なものは全て無くなってしまいました。あなた以上の主はもういないでしょう。仕えるべき主を失ったあたしを、お見苦しく思うのならば、どうか。
「……フラン」
 涙でにじんでろくに効かない視界の中でキャシアス様がわずかに手を動かしているのが見えた。その手を取って頬に寄せるとまだ残っている熱が伝わる。暖かい優しい指が動いて頬を拭ったのがわかると、また涙が溢れた。ああなんて優しい、優しくて、残酷な人なんだろう。死なせてほしいと願うあたしの心をこの人は全てわかった上で、それでも、命じているのだ。
「キャシアス様、お願いします、お願いします……」
 嗚咽にまみれた情けない声が部屋に響くけれども、主人は頑として首を縦に振ることはなかった。この方のそんなところがとても誇らしくて愛おしくて、辛い。
「フラン」
 大いなる大河の元へ今行かんとしている主が、それでも現世に留まらんと力を振り絞る。あたしはキャシアス様の手をぎゅっと握りしめて、耳を澄ます。
 穏やかな午後の日差しのように暖かい声が、そっとあたしを満たした。
「お前と、お前のいる世界を、愛していた」
 それは、最初で最後の、告白だった。
「……俺の愛するものを、その命が尽きるまで、守ってくれ」
 そしてあたしの愛する人は瞳を閉じて、主の血を浴びた家臣一人が残された。


 廊下を滑る台車の軋む音が聞こえる。きっとその台車の上にはキャシアス様の好きだった銘柄の紅茶とホルムらしい素朴な味付けのサンドイッチが乗せられていて、それを押す使用人はドアの側にぴったりと台車を寄せた後、グリムワルド家の食卓をずっと見守ってきた樫のドアを3回ノックするだろう。もうその主はいないことも知らずに。
 あたしは窓に手を掛ける。ここからまずはホルムを離れなければいけないが、その先のことも考えるとこの血だらけの服はいけないだろう。今の時間は庭掃除をしているはずの同僚の女中のことを頭に浮かべ、申し訳ないけれど少しだけ気絶してもらって服を交換しようと画策する。その後は北の森の中をくぐっていって城壁がないところを突破してホルムを脱出し、それからは何とかして他国へ潜り込もう。そうして酒場の下働きでも、あるいは暗殺業でも何でも良い、働き口を得て、生きていこう。
 いかなる時も、このフラン。あなたの命を胸に。
「……さようなら、キャシアス様」
 あたしはたった一人の主に別れを告げた。