例えばチョコレートがあったら投げ付けて使うその関係
今の現状を言うと、だ。僕の右手には麻布で簡素にラッピングされたチョコレートが一つ。そして左手方向には、同じものを貰ったはずなのに、湯煎で溶かしはじめたチョコレートのように茶色いどろどろしたオーラを纏って鎮座しているアベリオンが一匹。この二つだ。
右手のものについての説明は至って簡単だ。自称か弱い女の子――自称以外の何物でもない――であるネルが今日この日イベント好きな女子供の例に漏れず行事に乗っかり、日ごろの感謝の気持ちやら何やらを込めた物、つまり、紛れもなく義理のそれを手当たり次第に配っている中でたまたま居合わせた僕にもおこぼれが来ただけだ。別になんかもっと特別なものを期待していたわけではないし、ただの義理だと分かっているが、それでも「女子にチョコレートを貰った場合の対処」などという経験値が0に等しい自分が最善の返事を頭の中でさらいながら動揺をひた隠しにして受け取ったのはまだ記憶にだいぶ新しい。
わからないのはもう一つの方だ。ネルがこの日にチョコレートを配るのは毎年のことであるらしく、こいつもそれは充分に承知していた。沢山ある包みの中の一つが自分用であることを確信しており、躊躇いもなく要求して例年通りそれを貰って満足、していたはずだ。
機嫌が急降下したのは、アベリオンのあとに僕がチョコレートを貰ってからだ。
「……おい、いつまでそうしてんだよ」
「…………」
僕の占領するベッドの横で平積みしてある魔術書から一番手近なものを取って広げている奴に一声かけるが、反応は至ってシンプル、返答ナシだ。これが普段だったら本の世界に没頭していて気付いていないという可能性もあるのだが、先ほど皿を洗えだの洗わないだのの家事に関する押し付け合いという名の交渉をしたばかりで僕の声が聞こえないほどにその二度目か三度目の本に集中出来ているとも思えない。早い話が無視だくそったれ。
家に帰る前からこいつはこんな感じだった。自分だって普通に貰えているくせに何が不満なのか、さては一個も貰えない僕を見てあざ笑い優越感に浸るつもりだったのかと僕はこの優秀な頭脳であらん限りの邪推をして、アベリオンと連動して芋づる式に気分を悪くし、さてどのように喧嘩をふっかけてやろうかと頭の中でシミュレーションしていたところで、ネルが横でぽつりと呟いた言葉がいやにはっきりと耳に残っている。
取られちゃうって思ったのかもね。
「……アベリオン」
ベッドを背もたれ代わりにして地べたに座り込む同居人の頭を軽くはたいてみるが結果としてはほんの少し後頭部が前に押し出されて背中が丸くなっただけで状況は何も変わらない。相も変わらずこいつは沈黙を守り続けていてそれに対して僕は何も有効打を打てないでいる。大体こいつがこんな風に意固地になることの方が珍しい、普通なら何かあれば即座に文句をつけてくる奴だ。そうだ言いたいことがあるならさっさと言やあ良いものを何だか知らないが不気味に黙っているせいでこっちの調子も狂ってしまうのだ。無視するのはいいがされる方はひどく不愉快だ、くそがこっち向けよ馬鹿。
「……おいそこの馬鹿」
手始めに軽く罵倒してみるが返事はないただの馬鹿のようだ。念のためもう一回同じ台詞を背中にぶつけてみるが結果は同じだ。続いて色素のかけらもないその髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら呼ぼうとするとうるさそうに手を振り払われた。これにはややかちんと来る。そこで意地でも返事をさせてやろうと思った僕は麻布の包みを横に置いて手を空けると身を起こし、ベッドの横へあぐらをかいて向き直り、両の手でもって頭を勢いよく掴み掌で強く挟み込んだ。憎々しい背中が跳ねるのがわかる。
「返事、しろ、ってんだろーが!」
「っでえ!離せボケ!」
アベリオンが手元の本を放り投げて僕の手首を掴んで抵抗し、しばしの格闘の末腕が振り払われると眥を決した奴が反動をつけて振り返りがなり声をあげた。
「いきなりなんだよ!」
何だと考えてみれば大した用を自分は持ち合わせておらず、有り体に言ってしまえば黙り込まれていたのがひどく気に入らなかっただけなわけだけれど、それを直截に言うのも憚られたために僕は自分の煽り脊髄の反射に口を任せる。
「いきなりじゃねーっつの何度も呼んだろーが馬鹿、髪だけじゃなくて耳までジジイになったか?」
アベリオンの顔が更に険しさをまして眉間に皺が寄せられる。こいつが自らの身体的特徴を嘲弄されることを本気で嫌っていることを僕は知っていて言っている。そうして赤い片目が眇められたかと思うと、奴は膝で立ち、次の瞬間には僕の胸ぐらを掴み力任せに引き寄せた。前屈みの姿勢となった僕の顔の眼前には静かな怒りを湛えた奴の瞳があった。
「なんつったコラ」
至近距離で常よりずっと低い声で囁くように、脅すように奴は言う。だがそんなことでびびるほどこちとら柔には出来ていない。ローブを引っ張るその手首を強く、爪を立てるようにして握って視線を一切逸らすことなくガンづけしかえす。
「聞こえなかったか?こりゃ本当に耳がいかれたか、最も元から『できそこない』なのかもしれねーけど」
「…………てめぇ」
「はっ、もしかしてアタリだったりするのか?」
怒りが頂点に達したと見えるアベリオンが無言でこちらの胸を強く押した。いってえな何しやがるこのカス。自分の挑発全てを棚に上げて相手の実力行使をなじり、続いて反撃のため立ち上がろうとベッドに手を付いた。
そのとき、凹凸の感触と共にがさっという音がした。
「……あ」
嫌な予感がして、咄嗟に音の方を見やると危惧したとおりそこには今朝もらったばかりのチョコレートの包みが血管の浮いた手の下で苦しそうにその身を引きつらせていた。やべえ、と声にならない声で呟いてぱっと手をどかすが中身がどうなっているかどうか見た目では判断が付かない。砕けたような音はしなかったが潰れてしまっているかもしれないと考えると頭に登った血がすっと冷えていき、中身を開けて確認すべきか否か逡巡する。そして動揺して揺らぐ視線の中で僕は確かに見てしまった。アベリオンの、焦りやら何やらがマーブル状に混じった、こいつにしては珍しい名状しがたい表情を。
なんとなく、わかってはいるのだ。これが原因なんだろうと。
「……そんな気になるのかよ」
ただそれを明確に口にしようという気がしなかった。うまく言葉にすることが出来るような気もしなかったんだ。
「…………」
それはきっとこいつも同じなのだろう、アベリオンは僕の顔とチョコレートの間で視線を行き来させながら気まずそうに口を閉じている。どうやらこの馬鹿はこの件について徹底的に意見の表明を避ける方針らしく、従って話を進めるには僕の方からリードしていかなければならないと見える、くそめんどくせえ。それになんかあれだ、間が辛いっていうかやりにくいっていうか、ああもう、こういうのをどうすればいいかなんて規範も経験も僕の今までの人生においては全く存在しなかったんだよ馬鹿野郎。
「……何考えてっか、知らねえけど。多分それはねえよ」
この単純傲慢ひょろ馬鹿の思考回路なんざ理解できないししようとも思わないが、多分見当違いの方向に何やらを考えているのではないかと察してとりあえず否定してみる。
「……何が」
何が。何がって、それはお前。唇をわずかに尖らせた話し相手に伝える。
「……僕とあの女が、みたいなことだよ」
そうだ、そんなこと有り得ない。大体まず本人が開けっぴろげに隠すことなく大勢に手渡していた中の一人で、そんなことで勘違いできるほど僕はおめでたい頭をしていない。それに、もし仮に、仮に本命があったとしたならばそれは。
「……むしろ、お前だろ」
その言葉の意味がどれだけ伝わったかどうかはわからない。わずかに目を丸くしているのが見えてそれがまた癪に障る。ああそうだ、幼馴染みだか何だか知らないが気付けばいつも隣にいて、魔術の話をしているときはいいがそれ以外になるとお前はネルと話して、僕の知らないホルムの話なんかの間僕は手持ち無沙汰にそれを眺めるだけで、たまにネルが思い出したようにこっちに話しかけるのが悔しくてでも少しほっとして、胃がじくじくと痛むような感覚があって、そうだそれを言うなら文句を言いたいのは僕の方だ。絶対に言ってやるものかと決意してはいるが。
怒りとは似て非なる別の何かで頭が熱を帯びるのをどこか他人事のように僕は感じ取る。ああこれは駄目だ――怒りと憎しみはいい、攻撃は確かに僕の足を動かす原動力となる――しかしきっとこれはそうではない、僕の心を絡め取る何かだ。僕はそれを認めない、言語化などもってのほかだ。それで結局は双方の間に重い沈黙が鎮座することになる。こと現代の魔術理論を語るにはお互い長けているし、悪罵ならいくらだって浴びせかけてやれるが、僕たちはそこにばかり特化して己自身を語る術を殆ど知らない。この微妙な空気を吸うぐらいだったら無理矢理にでも喧嘩へ持ち込んだ方がまだ楽だった、と心中悔いていると、まだ不機嫌さを残した奴がじっとこちらを伺いながら問うた。
「……一つ教えろ」
偉そうな態度が殊更気にくわないが、話が進まないのも嫌なので最大限の譲歩をして邪魔をせずに続きを無言で促す。一秒後に僕はそれを後悔する。
「お前、他に誰かからチョコ貰ったか」
「………………は?」
何言ってんだお前という文句が反射的に口をついて出そうになるが、質問の内容と裏腹にアベリオンの顔がひどく真剣なのですんでのところでそれは飲み込んだ。貰ったかって、お前大体今日ほとんど一緒にいたからわかるだろ、わかってんのに聞いてんのか死ね、ポララポ一気食いして食中毒を起こして死ね。
「……もらってませんが何か」
嘘をついたってすぐばれることは自明の理であるからして僕は自慢出来ない現実を堂々とひけらかして矜恃をどうにか保とうと堪える。僕の答えが予想通りだったか、大した感慨もなさげに奴はそうか、とだけ呟いた。何なんだ何がしたいんだこいつは、と一旦は退いた苛立ちがまたも首をもたげてきたところで、奴は俯いて視線を落とした。
「じゃあ許す」
それでもってまたこいつは訳の分からないことを口走るのだ。
「…………あぁ?」
話の繋がりが全く意味不明だ、と僕は声と表情と全身で主張してみせるが目の前の奴はそんなこと我関せずとばかりに姿勢を固定してこっちを見ないままで続けた。聞いてやがらねえなお前。
「ネルは許す。ネルだから仕方ないし、まあネルならいいかなって、いやだからあれなのもあるんだけど、ネルならまあいい。でも他のは駄目だ。許さねえ」
淡々と、しかし確かに声色に本気を滲ませて喋るアベリオンが顔を上げた。この世の真理を語るかのような真剣な顔つきで、僕の目を射た。
「だから他の女からは貰うなよ、絶対。俺が許さないからな」
正直に言うと、わけがわからなかった。あまりにも斜め45度にかっとびすぎたその要求は至近距離でアベリオンが見つめてくる状況とミスマッチすぎるがために僕の脳細胞が理解をするのに幾何の時を要した。つまりは情けないことにほんの少しの間何の反応も出来ずにいたわけだが、固まる僕に痺れを切らした短気なアベリオンが眉をひそめてわかったかと念押ししてきたところでようやく思考回路が働き始める。お前、それ、お前、なんだそれ。
「……っだよそれどんな命令だ、っていうかなんで僕がそんなのきかなくちゃいけないんだ!」
「うるっせえいいからきけ駄目なもんは駄目なんだ!」
「だからなんでだっつーの!」
「なんでもだ!」
駄目だコイツ人の話聞く気0だ。3才児でもかくやという程強情な面をもつこのアホがこうなったら一切の理屈が通用しなくなるのは今まで散々身に染みているのだが、魔術師が自らの口を閉ざしてしまったらお終いなので僕はしつこく食い下がる。
「お前にそんなこと決められる筋合いなんかさらさらねーよ、お前だって僕が同じ事言ったってききゃしねーだろうが!」
不公平さを訴えるのには立場の逆転仮説を交えた反駁は非常に有効だ。平等精神なんざ精々犬の餌にでもなればいいぐらいにしか考えちゃいないが、手段を問わず使えるやり方は全て使うのがモットーだ。
「別にいーよ」
ただしそれが通じるのは同じ価値観を持った相手に限定されるということを失念していた自分の迂闊さを呪いたい。
「別に俺が貰えないのは構わないけど、それよりもまずお前が貰うことが気にくわない」
議論するべくもない当たり前のことのように奴は言い放ち、それで充分だろうとばかりに一つ鼻息を吹かせて立ち上がるとそのままリビングの方へと歩き出した。残された僕はといえば一切悪びれる姿勢もなく勝手なことを言って去っていくその背中に悪態を投げ付けることもなく呆然と見送っていた。アベリオンの声が残響する脳内でもう一回ネルが今朝の台詞を繰り返す。
取られちゃうって思ったのかもね。
――誰を?
瞬間、顔がカッと熱くなって息が途絶えた。頭が真っ白になったみっともない狼狽はとても隠しきれるものではなく、あいつが背を向けていることが不幸中の幸いだった。いやいやいやねえよそれはねえよきめえよだってあいつだぞあいつのことだからどうせ何につけても負けるのが嫌だとかそういうアレだろその言い方を選んでなかっただけで、ていうか選ぶも何もあいつ絶対何も考えてねえよどうせ勢いで売り言葉に買い言葉で言ったに決まってるそうだ深い意味なんて全くないに決まってるああそんな台詞にここまで焦る自分が馬鹿らしいのが腹が立つあいつムカつく死ねマジ死ねチョコレート喉につまらせて死ね!
百の悪口を脳内で並べ立てながら、うまく動かない口でたった一言死ねと叫んで、僕は手元の枕を野郎の背中に力一杯投げ付けた。
了
今の現状を言うと、だ。僕の右手には麻布で簡素にラッピングされたチョコレートが一つ。そして左手方向には、同じものを貰ったはずなのに、湯煎で溶かしはじめたチョコレートのように茶色いどろどろしたオーラを纏って鎮座しているアベリオンが一匹。この二つだ。
右手のものについての説明は至って簡単だ。自称か弱い女の子――自称以外の何物でもない――であるネルが今日この日イベント好きな女子供の例に漏れず行事に乗っかり、日ごろの感謝の気持ちやら何やらを込めた物、つまり、紛れもなく義理のそれを手当たり次第に配っている中でたまたま居合わせた僕にもおこぼれが来ただけだ。別になんかもっと特別なものを期待していたわけではないし、ただの義理だと分かっているが、それでも「女子にチョコレートを貰った場合の対処」などという経験値が0に等しい自分が最善の返事を頭の中でさらいながら動揺をひた隠しにして受け取ったのはまだ記憶にだいぶ新しい。
わからないのはもう一つの方だ。ネルがこの日にチョコレートを配るのは毎年のことであるらしく、こいつもそれは充分に承知していた。沢山ある包みの中の一つが自分用であることを確信しており、躊躇いもなく要求して例年通りそれを貰って満足、していたはずだ。
機嫌が急降下したのは、アベリオンのあとに僕がチョコレートを貰ってからだ。
「……おい、いつまでそうしてんだよ」
「…………」
僕の占領するベッドの横で平積みしてある魔術書から一番手近なものを取って広げている奴に一声かけるが、反応は至ってシンプル、返答ナシだ。これが普段だったら本の世界に没頭していて気付いていないという可能性もあるのだが、先ほど皿を洗えだの洗わないだのの家事に関する押し付け合いという名の交渉をしたばかりで僕の声が聞こえないほどにその二度目か三度目の本に集中出来ているとも思えない。早い話が無視だくそったれ。
家に帰る前からこいつはこんな感じだった。自分だって普通に貰えているくせに何が不満なのか、さては一個も貰えない僕を見てあざ笑い優越感に浸るつもりだったのかと僕はこの優秀な頭脳であらん限りの邪推をして、アベリオンと連動して芋づる式に気分を悪くし、さてどのように喧嘩をふっかけてやろうかと頭の中でシミュレーションしていたところで、ネルが横でぽつりと呟いた言葉がいやにはっきりと耳に残っている。
取られちゃうって思ったのかもね。
「……アベリオン」
ベッドを背もたれ代わりにして地べたに座り込む同居人の頭を軽くはたいてみるが結果としてはほんの少し後頭部が前に押し出されて背中が丸くなっただけで状況は何も変わらない。相も変わらずこいつは沈黙を守り続けていてそれに対して僕は何も有効打を打てないでいる。大体こいつがこんな風に意固地になることの方が珍しい、普通なら何かあれば即座に文句をつけてくる奴だ。そうだ言いたいことがあるならさっさと言やあ良いものを何だか知らないが不気味に黙っているせいでこっちの調子も狂ってしまうのだ。無視するのはいいがされる方はひどく不愉快だ、くそがこっち向けよ馬鹿。
「……おいそこの馬鹿」
手始めに軽く罵倒してみるが返事はないただの馬鹿のようだ。念のためもう一回同じ台詞を背中にぶつけてみるが結果は同じだ。続いて色素のかけらもないその髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら呼ぼうとするとうるさそうに手を振り払われた。これにはややかちんと来る。そこで意地でも返事をさせてやろうと思った僕は麻布の包みを横に置いて手を空けると身を起こし、ベッドの横へあぐらをかいて向き直り、両の手でもって頭を勢いよく掴み掌で強く挟み込んだ。憎々しい背中が跳ねるのがわかる。
「返事、しろ、ってんだろーが!」
「っでえ!離せボケ!」
アベリオンが手元の本を放り投げて僕の手首を掴んで抵抗し、しばしの格闘の末腕が振り払われると眥を決した奴が反動をつけて振り返りがなり声をあげた。
「いきなりなんだよ!」
何だと考えてみれば大した用を自分は持ち合わせておらず、有り体に言ってしまえば黙り込まれていたのがひどく気に入らなかっただけなわけだけれど、それを直截に言うのも憚られたために僕は自分の煽り脊髄の反射に口を任せる。
「いきなりじゃねーっつの何度も呼んだろーが馬鹿、髪だけじゃなくて耳までジジイになったか?」
アベリオンの顔が更に険しさをまして眉間に皺が寄せられる。こいつが自らの身体的特徴を嘲弄されることを本気で嫌っていることを僕は知っていて言っている。そうして赤い片目が眇められたかと思うと、奴は膝で立ち、次の瞬間には僕の胸ぐらを掴み力任せに引き寄せた。前屈みの姿勢となった僕の顔の眼前には静かな怒りを湛えた奴の瞳があった。
「なんつったコラ」
至近距離で常よりずっと低い声で囁くように、脅すように奴は言う。だがそんなことでびびるほどこちとら柔には出来ていない。ローブを引っ張るその手首を強く、爪を立てるようにして握って視線を一切逸らすことなくガンづけしかえす。
「聞こえなかったか?こりゃ本当に耳がいかれたか、最も元から『できそこない』なのかもしれねーけど」
「…………てめぇ」
「はっ、もしかしてアタリだったりするのか?」
怒りが頂点に達したと見えるアベリオンが無言でこちらの胸を強く押した。いってえな何しやがるこのカス。自分の挑発全てを棚に上げて相手の実力行使をなじり、続いて反撃のため立ち上がろうとベッドに手を付いた。
そのとき、凹凸の感触と共にがさっという音がした。
「……あ」
嫌な予感がして、咄嗟に音の方を見やると危惧したとおりそこには今朝もらったばかりのチョコレートの包みが血管の浮いた手の下で苦しそうにその身を引きつらせていた。やべえ、と声にならない声で呟いてぱっと手をどかすが中身がどうなっているかどうか見た目では判断が付かない。砕けたような音はしなかったが潰れてしまっているかもしれないと考えると頭に登った血がすっと冷えていき、中身を開けて確認すべきか否か逡巡する。そして動揺して揺らぐ視線の中で僕は確かに見てしまった。アベリオンの、焦りやら何やらがマーブル状に混じった、こいつにしては珍しい名状しがたい表情を。
なんとなく、わかってはいるのだ。これが原因なんだろうと。
「……そんな気になるのかよ」
ただそれを明確に口にしようという気がしなかった。うまく言葉にすることが出来るような気もしなかったんだ。
「…………」
それはきっとこいつも同じなのだろう、アベリオンは僕の顔とチョコレートの間で視線を行き来させながら気まずそうに口を閉じている。どうやらこの馬鹿はこの件について徹底的に意見の表明を避ける方針らしく、従って話を進めるには僕の方からリードしていかなければならないと見える、くそめんどくせえ。それになんかあれだ、間が辛いっていうかやりにくいっていうか、ああもう、こういうのをどうすればいいかなんて規範も経験も僕の今までの人生においては全く存在しなかったんだよ馬鹿野郎。
「……何考えてっか、知らねえけど。多分それはねえよ」
この単純傲慢ひょろ馬鹿の思考回路なんざ理解できないししようとも思わないが、多分見当違いの方向に何やらを考えているのではないかと察してとりあえず否定してみる。
「……何が」
何が。何がって、それはお前。唇をわずかに尖らせた話し相手に伝える。
「……僕とあの女が、みたいなことだよ」
そうだ、そんなこと有り得ない。大体まず本人が開けっぴろげに隠すことなく大勢に手渡していた中の一人で、そんなことで勘違いできるほど僕はおめでたい頭をしていない。それに、もし仮に、仮に本命があったとしたならばそれは。
「……むしろ、お前だろ」
その言葉の意味がどれだけ伝わったかどうかはわからない。わずかに目を丸くしているのが見えてそれがまた癪に障る。ああそうだ、幼馴染みだか何だか知らないが気付けばいつも隣にいて、魔術の話をしているときはいいがそれ以外になるとお前はネルと話して、僕の知らないホルムの話なんかの間僕は手持ち無沙汰にそれを眺めるだけで、たまにネルが思い出したようにこっちに話しかけるのが悔しくてでも少しほっとして、胃がじくじくと痛むような感覚があって、そうだそれを言うなら文句を言いたいのは僕の方だ。絶対に言ってやるものかと決意してはいるが。
怒りとは似て非なる別の何かで頭が熱を帯びるのをどこか他人事のように僕は感じ取る。ああこれは駄目だ――怒りと憎しみはいい、攻撃は確かに僕の足を動かす原動力となる――しかしきっとこれはそうではない、僕の心を絡め取る何かだ。僕はそれを認めない、言語化などもってのほかだ。それで結局は双方の間に重い沈黙が鎮座することになる。こと現代の魔術理論を語るにはお互い長けているし、悪罵ならいくらだって浴びせかけてやれるが、僕たちはそこにばかり特化して己自身を語る術を殆ど知らない。この微妙な空気を吸うぐらいだったら無理矢理にでも喧嘩へ持ち込んだ方がまだ楽だった、と心中悔いていると、まだ不機嫌さを残した奴がじっとこちらを伺いながら問うた。
「……一つ教えろ」
偉そうな態度が殊更気にくわないが、話が進まないのも嫌なので最大限の譲歩をして邪魔をせずに続きを無言で促す。一秒後に僕はそれを後悔する。
「お前、他に誰かからチョコ貰ったか」
「………………は?」
何言ってんだお前という文句が反射的に口をついて出そうになるが、質問の内容と裏腹にアベリオンの顔がひどく真剣なのですんでのところでそれは飲み込んだ。貰ったかって、お前大体今日ほとんど一緒にいたからわかるだろ、わかってんのに聞いてんのか死ね、ポララポ一気食いして食中毒を起こして死ね。
「……もらってませんが何か」
嘘をついたってすぐばれることは自明の理であるからして僕は自慢出来ない現実を堂々とひけらかして矜恃をどうにか保とうと堪える。僕の答えが予想通りだったか、大した感慨もなさげに奴はそうか、とだけ呟いた。何なんだ何がしたいんだこいつは、と一旦は退いた苛立ちがまたも首をもたげてきたところで、奴は俯いて視線を落とした。
「じゃあ許す」
それでもってまたこいつは訳の分からないことを口走るのだ。
「…………あぁ?」
話の繋がりが全く意味不明だ、と僕は声と表情と全身で主張してみせるが目の前の奴はそんなこと我関せずとばかりに姿勢を固定してこっちを見ないままで続けた。聞いてやがらねえなお前。
「ネルは許す。ネルだから仕方ないし、まあネルならいいかなって、いやだからあれなのもあるんだけど、ネルならまあいい。でも他のは駄目だ。許さねえ」
淡々と、しかし確かに声色に本気を滲ませて喋るアベリオンが顔を上げた。この世の真理を語るかのような真剣な顔つきで、僕の目を射た。
「だから他の女からは貰うなよ、絶対。俺が許さないからな」
正直に言うと、わけがわからなかった。あまりにも斜め45度にかっとびすぎたその要求は至近距離でアベリオンが見つめてくる状況とミスマッチすぎるがために僕の脳細胞が理解をするのに幾何の時を要した。つまりは情けないことにほんの少しの間何の反応も出来ずにいたわけだが、固まる僕に痺れを切らした短気なアベリオンが眉をひそめてわかったかと念押ししてきたところでようやく思考回路が働き始める。お前、それ、お前、なんだそれ。
「……っだよそれどんな命令だ、っていうかなんで僕がそんなのきかなくちゃいけないんだ!」
「うるっせえいいからきけ駄目なもんは駄目なんだ!」
「だからなんでだっつーの!」
「なんでもだ!」
駄目だコイツ人の話聞く気0だ。3才児でもかくやという程強情な面をもつこのアホがこうなったら一切の理屈が通用しなくなるのは今まで散々身に染みているのだが、魔術師が自らの口を閉ざしてしまったらお終いなので僕はしつこく食い下がる。
「お前にそんなこと決められる筋合いなんかさらさらねーよ、お前だって僕が同じ事言ったってききゃしねーだろうが!」
不公平さを訴えるのには立場の逆転仮説を交えた反駁は非常に有効だ。平等精神なんざ精々犬の餌にでもなればいいぐらいにしか考えちゃいないが、手段を問わず使えるやり方は全て使うのがモットーだ。
「別にいーよ」
ただしそれが通じるのは同じ価値観を持った相手に限定されるということを失念していた自分の迂闊さを呪いたい。
「別に俺が貰えないのは構わないけど、それよりもまずお前が貰うことが気にくわない」
議論するべくもない当たり前のことのように奴は言い放ち、それで充分だろうとばかりに一つ鼻息を吹かせて立ち上がるとそのままリビングの方へと歩き出した。残された僕はといえば一切悪びれる姿勢もなく勝手なことを言って去っていくその背中に悪態を投げ付けることもなく呆然と見送っていた。アベリオンの声が残響する脳内でもう一回ネルが今朝の台詞を繰り返す。
取られちゃうって思ったのかもね。
――誰を?
瞬間、顔がカッと熱くなって息が途絶えた。頭が真っ白になったみっともない狼狽はとても隠しきれるものではなく、あいつが背を向けていることが不幸中の幸いだった。いやいやいやねえよそれはねえよきめえよだってあいつだぞあいつのことだからどうせ何につけても負けるのが嫌だとかそういうアレだろその言い方を選んでなかっただけで、ていうか選ぶも何もあいつ絶対何も考えてねえよどうせ勢いで売り言葉に買い言葉で言ったに決まってるそうだ深い意味なんて全くないに決まってるああそんな台詞にここまで焦る自分が馬鹿らしいのが腹が立つあいつムカつく死ねマジ死ねチョコレート喉につまらせて死ね!
百の悪口を脳内で並べ立てながら、うまく動かない口でたった一言死ねと叫んで、僕は手元の枕を野郎の背中に力一杯投げ付けた。
了