遺跡やら古代都市やら戦争やら御子やら川ドボンやらなんやらの結果信仰と忠誠を誓われてしまった僕は明確な拒否も肯定もすることなくずるずると成り行きに任せ、今は少しだけ参拝者の減った神殿で、育ての母と、竜の子と、神殿軍あがりの元忠犬とで、元通りの、しかし少し違う日常に戻りつつあった。


光の証


「よーエメク!こっちこっち!」
「パリス!」
 偶然寄ったひばり亭に幼なじみがいたのは予期せぬ幸いであった。確か今はパリス屋とかいうそのまますぎて怪しいのが一周して怪しくないようなお店で、冒険の経験を活かして遺跡探検ツアーなんて仕事をしている。最初はその提案に、驚嘆と呆れと、ひょっとしたらついにパリスも定職が持てるかという希望とが入り交じった複雑な気持ちであったが、こちらの心配をよそに今はそれなりに軌道に乗っているらしい。遺跡の発掘、保護に命を賭けるテレージャとの衝突も危惧されたが、最終的には、ツアーの終着地は歴史的資料も少なく階層も浅い竜の洞窟の下層にすることで双方の合意が得られたという。
「なあエメク、やっぱりお前がやってくれねえか、魔王」
「……遺跡探検ツアーの話をしたときから思ってたけど、お前、本当デリカシーないよね」
 探検ツアーといってもただ行って見て帰るだけじゃ駄目だ、エンターテイメント性がねえと客がこねえ。パリスがたまに面白い発想をしてみせるのは昔からだが、この提案は観光客にはうけても個人的には微妙も微妙と言わざるをえない。ツアー終着地には魔王の事務所があり、そこで客を適度に脅かしてみせるのだとか。ちなみに僕に話が来る以前は適任者と見込まれたシーフォンがなんのかんの言いつつ結構ノリ気でやってたりしたのだが(一回だけこっそりとツアー客に紛れてその様子を見に行ったら軽い稲妻が脅しに使われるはずが僕にだけ本気で屠りの剣を撃ってきたので同行者はさぞスリリングな思いが出来たであろう)、結局営業時間の決められた事務所の中にいるだけの生活に彼が満足出来るわけもなく、遺跡の中から掘り出した本をあらかた読み尽くしたあとはさっさと旅立ってしまった。今頃はまたどこかで物騒な禁書に目を輝かせているのだろう。魔王は魔王にふさわしい力を手に入れるために旅立ち、残されたのは空の事務所。次に白羽の矢が立てられたのは僕だった。いや、まあ、確かに、ある意味僕以上の適任者なんていないんだけどさ。あの遺跡の魔王って意味ならね。
「適任だろ」
「洒落にならない、とか思わないのか」
「リアリティが出る」
「わーすげーものはいいようだー」
 客の中に白子がいたら更に完璧だな、とうっすら思う。自分のそのような想像を戒めたい気持ちもある一方、そうやってくだらない話として考えられるだけ落ち着いたことにどこかで安堵もしている。おぞましい暗闇の口を開いて自分を手招き呑み込んだかつての遺跡も今やこんなものだ。天空の都市から帰ってきて、振り返りたくもない記憶と共に遺跡を自分の中で封印したらきっとこんな気持ちにはなれなかっただろう。もう遺跡の主はいない、夜種も量産されることはない、もう大丈夫だ。パリスが全力で遺跡の存在を茶化してくれたおかげで、遺跡とそれにまつわる自分について向き合い整理する余裕が出来てそう思えるようになった。彼がそこまで考えていたかどうかは知らないが、少なくとも自分はそれについてある程度の感謝の念を持っている。が、それとこれとはまた話は別だ。
「大体俺には本業があるんですよ。酷い目に合ったにも関わらずまだアークフィアを信じてくれる人たちのために働かんといけないわけ」
「知ってるよんなこたぁ」
「じゃ他の人間当たってくれよ」
「んー……」
 彼は無精ひげに手を当てていくらか視線を宙に泳がせる。何だ、魔王以上に言いにくいことがあるのか。
「その神殿でのそれなんだけどよ。……お前、最近大丈夫かなって」
「……何が」
「何がってまー、その、色々来たりすんだろ」
「あー……」
 お茶を濁しつつの会話だが、大体パリスの言いたいところはわかる。アーガデウムを叩きつぶし帰ってきた僕たち、特にそれ以前に既にカリスマ探索者とか噂されてしまっていた僕についてはすっかり、ホルムを、いや世界を救った英雄だという評価がついてしまった。まあね、ホルムの中だけでならなんだかんだいって小さい町だから持ち上げられてもまあ、チュナだけじゃない他の眠りから覚めた子どもたちやその親、凶作に苦しんだ農家、夜種に家族を殺された人たちからお礼を言われるのは悪い気はしなかった。心から良かったって思ったよ。ただ、その噂を聞いて、ナザリやら西シーウァやらはてはエルパディアなんかから物見遊山で訪れた人が神殿に来て、英雄を一目見たいと言ってくるのにはちょっと困っている。
「ユールフレールの公式声明は一切俺のことは触れてなかったはずなんだけど、どうして関係ないところまで俺の話行ってるんだろうなあ」
「お偉いさんの話をそのまま鵜呑みにする奴の方がすくねーだろ、って話だ。テオルがタイタスの生まれ変わりで、だからこそアルケア帝国を復活させようとしたってところまではまあ結構信じられてるっぽいけどな。ホルムくんだりまでやってくる西の人間の中では西シーウァ軍がテオルを討ち取ったって話はでっちあげだってのが定説になってるな」
「実際行方不明だよな?」
 テオルは彼が夢見た空中都市と諸共に消えていった。突然公国の公子がいなくなったことでこの国は実は結構混乱している。一応今は神殿軍が退いたのに合わせて西シーウァも撤退する形で停戦にはなったが、国境の近いここがいつまた戦火に晒されるかわからないし、そもそもネスの国自体分裂する可能性も浮上してきている。国家同士の情勢はとんと疎い、駆け引きもなにも知らない自分で不安もあるが、この町を去っていくアルソンにできることがあったらなんなりと言ってくれと伝えてはある。
「影に呑まれて姿を消したっていうのが元火車騎士団員の証言だ。ネス側の軍がテオルの戦死は有り得ないと言い張るのは勿論、西シーウァ側だって相手の総大将を討ち取ったりしたらそりゃ味方中が湧き上がってわかるはずで、それがなかったってことは討ち取ってなんかないってのは一兵卒でも理解できる話だ。で、その一兵卒からどんどん話が広まってるんだろう」
「テオルの死が怪しいのはわかるけど、なんで俺に……」
「あのアーガデウム、戦場でも見えたらしいぜ」
「マジでか」
「理想に燃える兵士だったら尚更強く見えたんじゃねーの。で、あれはなんだ、ホルムの上だ、ホルムには遺跡があった、遺跡といえば探索者、何々ホルム在住のAさんによると『アーガデウムが崩れ去ったあと、空から降りてきたカリスマ探索者が、もう大丈夫だ世界は救われ呪いは消え去ったと言い……』とかなんとか」
「いやとりあえずゼペックさんに報告してお触れだしてもらったんだけど」
「そういう感じになってんだよ」
「うあーなんだそれーめんどくせーまじめんどくせー」
「ま、領主側から名指しでお前が解決したって知らせが出されたからな。遺跡の呪いと謎の空中都市とテオルの死を結びつけて、お前に色々尾ひれついてるらしいぜ」
「正直最近の参拝者に期待されてるハードルが高すぎて辛いです」
 あるときは儚い美少年だったり、あるときは背丈2メートルを超える大男だったり、各人の思い浮かべる英雄像というのは結構幅があるものなのだなと関心する。勿論、僕は僕以外の人間にはなれないわけで、微妙な反応をされるのがいたたまれないので最近はご指名には理由をつけて意図的に避けていたりする。まあそれにも限度があるので、つかまるときはあっけなくつかまるのだけれど。
「で、だからだよ」
「は?」
 突然の話題転換に疑問を呈すると、すぐに彼は言葉を付け足した。
「最近、神官の仕事あまりできてないんだろ? 普通に働いてるときにも観光客が来るって。だったらいっそよ、遺跡の奥に引きこもって、ツアー客と決められた時間だけ会って適当に話して、ってやったほうが楽なんじゃないか? ひっきりなしにやってこられると疲れるかもしんねーけど、一日2、3時間だけならわりとできるだろ。ニーズ的にもぴったりだし」
 遺跡の奥でかつての英雄が魔王に扮する。遺跡の伝説目当ての人間なら遺跡に英雄がいるのは一石二鳥だし、それなら観光客が神殿に殺到して敬虔な信者の祈りを妨げることもないかもしれない。周りが働く中で自分がただ車座の中心で話しているだけの時に感じる申し訳なさもあり、そう考えるとパリスの言葉はそれなりに魅力的に見えた。まさか彼がここまで考えていてくれたとは。
「まあ半分くらいは今でっちあげたんだけどよ」
「おい返せ俺の感動」
「はは。でも、そこまで悪い話でもないだろ」
「んー……」
 ほとぼりが冷めるまでどこかにひっそりと暮らすのはどうだい、とアダに勧められたことはある。といってもこの町を離れるつもりはないし、結局神殿の孤児だという話は世に触れ回っているので僕目当てに神殿を訪れる人はいるだろう。それならばいっそこっちにいるよ!と宣伝すれば神殿に迷惑をかけることは少なくなるかもしれない。
 でもなあ。一人の男が頭をかすめる。
「まあ、遠慮しとく」
「……ちっ、やっぱだめか」
「ネルとかに頼んだらどうだ」
「魔法の1つも使えない奴に魔王はないだろ」
「いいじゃん、肉体派魔王。魔王が魔法使えなきゃいけないって法律はないし。つか正直俺シーフォンの魔界の門よりネルの拳の方が怖いよ」
「そらおまえ昔からのトラウマもあるだろ」
「否定はしない」
「真面目に考えろよー」
「エンダもある意味ぴったりなんじゃないか。自分の墓地だし、あそこ」
「決められた時間に決められたことができる奴で頼む」
「いっそテレージャ。遺跡の守護者」
「無理に決まってんだろ」
「俺もそう思う」
 話は脱線し、とりとめもなくなってきたところでひばり亭のドアが開き、黒髪の男が入ってきた。普通よりだいぶ背の高く体格も良いその人物は、自分もパリスもよく知るところのものだった。
「エメク、ここだったか」
「メロダーク」
 彼はそのまままっすぐに僕に歩み寄り、簡潔に用件を話す。およそ仕事以外の無駄を好まない男だ。
「アダが探していた。明日葬式が入ったからと……」
「あー……、わかった。……誰?」
「……聞いていない」
「そっか……わかった。今から帰る」
 結局口に入れたのはビール一杯、つまみも頼まなかったがそのまま神殿に戻ることにした。席を立ちパリスに向き直る。
「じゃ、またな。暇になったら飲み誘ってくれ」
「おー」
 ひらひらと手を振るパリスに同じ仕草を返したあと、ドアに向かう。3歩後ろをメロダークがついてきた。


 彼と僕の経緯を語るのはわりかし面倒だが、努力はしてみよう。メロダークはユールフレール島にある本殿の有する神殿軍の一員だった。神殿軍の目的は、遺跡を封じ、タイタスの復活を妨げること。メロダークは傭兵と身分を偽り探索者としてこの遺跡を調査するためにホルムへやってきた。そして彼の鼻が素晴らしかったのかあるいは偶然か、数多の探索者の中から見事、タイタスの『御子』である僕を探り当て多くの探索を共にし、タイタスの計画を暴いたのであった。そして僕はといえば遺跡をこのまま進んで良いのかタイタスの掌の上で踊らされているだけではないのかと自問自答しているさなか彼に呼び出され、一生閉じ込められるか死ぬかの選択肢を突きつけられ、ちょっと理不尽すぎるだろうと面くらい、色々あってメロダークともども川に落ち、おそらく夢ではない夢を見て、戻ってきたら彼に信仰された。
 信仰、という言葉が持つ意味について考えている。何もそのことがあったからではなく、信仰については昔から、……考えている。疑っている、と言ったら方々に誤解を招きかねない、だから、考えている。僕が拾われ育った神殿は大河の女神アークフィアを信仰している。アークフィアの存在を、アークフィアの慈悲を、アークフィアの罪を、僕らは信じている。そう信じていると口で言うのはひどく簡単だけれども信仰は「何故?」という言葉にとても弱いだから僕らは言い訳をたくさん用意している。僕ら人間が存在していることがアークフィアの慈悲の証であると何回説いただろうか。「信じたとして、それから?」という身も蓋もない魔術師の言い方には「信じるだけで、いいのです」と返す。別に何か具体的なものを求めて教えを広めるわけじゃない、それが当たり前だから教えるだけなのだけれど、現実問題お金を信者から受け取らないで暮らしていけるわけはない。けれども決して私欲のために信仰しているわけではない、と言い切りたいのだが、口がうまく動かないことがある。僕はアークフィアのような無償の愛を信じ僕自身それを信条として行動するように幼いときから躾けられていた。困った人がいたら助けなさい、人に優しくありなさい、いつも笑顔で接しなさい。言われたとおりに実戦したら、僕の白い肌や赤い目を気味悪がる人たちが段々と減っていき、パリスやネルみたいな友達もできた。信仰とはなんと素晴らしいのだろう、アークフィアを信じるかぎり救われるのだ、と無邪気に考えていたのはいつまでだったろうか。ある日ふと「これは無償の行為と言えるのだろうか?」と思い立って以来アークフィアの慈悲を……疑い、考えるようになった。僕が人に優しくしたいのは、そのことによって僕が人に優しくされるからだ。泣いている人を慰めるのは、そのまま泣いているのを見過ごすのは僕が冷酷であると示すようだからだ。笑顔で接するのは笑顔で返して貰いたいからだ。僕は心の何処かで返礼や安らぎを期待しながら人に接している。はたしてそれは、これは、無償の慈悲と言えるのだろうか。僕が持つ信仰は正しい信仰なのだろうか。アークフィアは己の身を賭してハァルに人間を救うよう求めた、たとえ彼女自身が罪人となってでも彼女は慈悲を与えた。同じことが僕にできるのだろうか。
 深い深い河の底、彼女に会った。色んなことを聞きたかったのに、何一つ口にできないまま帰ってきてしまった。
「そういやメロダーク、鎮魂の文言となえられる?」
 隣に立つ男を見上げる。元軍人なだけあってさすがに威圧感のある長身だが、僕はすっかり慣れてしまった。
「……式を執り行うことはできない」
「まあ、そうだよなあ」
 昔からうちに勤めてくれている神官さんが大体結婚やら葬式やらをやってくれるのだが、彼ももう年なのでいい加減代替わりをしないといけない。最近は体の具合が特に悪そうだから無理はさせたくない。一応後継者は僕になっていたはずだが、どうだろう。神官を継いでまっとうにやっている自分の姿が最近想像しにくくなっている。
「……メロダークも一緒にやる?」
「何を」
「明日の式」
「男手が要り用なことなら勿論」
「あーそういう力仕事じゃなくって、俺と並んで神官補助しないかって」
 少しの間が開く。ああちょっとこれは駄目だったかな? 彼の『信仰』はどこからどこまでがオーケーで何が禁じられているのか教典もないからわかりにくい。いや、あえていうなら僕が教典なのか?
「……お前が言うなら、従おう」
 ああほら出たよ、従おう!
「嫌ならいいよ、神殿のことをしたくないってんなら本当に無理強いはしないから」
 彼は彼を救わなかったハァルや大河の神々への誓いを捨て、僕に帰依したという。だが僕自身は一応、大河の神々の信仰者であるから話はややこしい。僕が信じるものを彼は信じているのだろうか。
「嫌ではない。だが、俺が入ってもいいものなのか?」
「あーそれは大丈夫でしょ。メロダークは働き者だから別に文句は出ないだろうし、それよりなにより我がホルムアークフィア神殿は跡継ぎ年中募集中です」
 メロダークはホルムに住み着いて以来、同じ神殿で暮らしている。神殿の雑用を日々こなしてくれていて、若い男手が僕しかいなかった頃に比べたらだいぶ楽になった。アダも助かっていると口にし、彼は神殿によく馴染んでいると思う。
「……跡継ぎはお前ではないのか」
 少し訝しげに彼は問う。しまった口が滑った。
「……まーそうだけど、あれだよこの先俺一人じゃ厳しいから神官できる人は何人いても困らないって話だよ」
 この先のプランにメロダークをごく当たり前に入れてしまっているが、まあ本人から苦情が出ないならこれでいいのだろう。
「……しかし、俺でいいのか」
「いいもなにも、こっちからお願いしてる立場なんだけど……」
「俺は………」
 元々あまり話が得意ではない彼はそこで言いよどんでしまった。俺は人を殺しているのに? あるいは、教えを捨てているのに? そんなもの言わなければばれないじゃないか、とあっけらかんと言い捨てることも可能だが、こと信仰に限っては言わなければいいという問題ではない。人には言わないところ、自分の本心の問題なのだ。
「……自分に聞いてみて、無理そうだったら遠慮無く言ってよ。俺が勝手に言ったことだし、俺だけでもできないことでは全然ないし」
 でも、と一言付け足す。
「メロダークは、少なくとも俺よりは相応しいと思うよ」
 自分を派手に裏切った男に信仰されるよりはまだアークフィアもマシなんじゃないか、と思うわけだ。彼は一言も発せず沈黙した。


 父を失った娘が静かに泣いている。聖堂に、死者の鎮魂を祈る神官の声と娘のすすり泣く声だけが響く。我らがアークフィアに祈りを捧げ、遺体を墓所に移す。半年前にはありふれた光景だったものも、今では久々のことだった。
「……慣れないなあ、やっぱり」
「………」
 夜種の襲撃、凶作による飢饉、そして戦争。あの頃の神殿に鎮魂の唄が流れない日の方が少なかった。遺跡の探索をしていたのもあって全ての葬式に参加したわけではないが、できるときには手伝いをしていた。人々の泣き声を聞く度に胸が痛んだ。自分が暴いた災いを、終わらせようと躍起になって遺跡へ潜った。それが災いの思うつぼだとも知らず、更に戦争を招いた。
 全ての元凶が、終わった今になって英雄扱いだ。滑稽な話だと、口にはしないけれども思わずにはいられない。
「神殿だからずっと昔からやってることなのにさ。人が死ぬのはやっぱり悲しい。誰であっても」
「……家族に看取られて逝けただけ、幸せだろう」
 彼の過去を鑑みると少し重くなるが、一応彼なりのフォローなのだろう。まあそうだね、と曖昧な返事を返す。
「孫が眠り病になったって言ってさ、何回もアダに相談してたのを俺も見てたんだ。それで彼の義理の息子が遺跡に入って、命までは取られなかったものの深手を負って働けなくなった。だから一度引退した彼が生計を立てるために無理をして働くようになって……一ヶ月前にはベッドから動けなくなっていたらしい」
 半年前、彼に両手をぎゅっと握りしめられ、「孫が戻ってきた、本当にありがとう」と涙ながらに言われたことを思い出す。ありがとう、という言葉に嬉しくなって、そして申し訳なくなったことも頭をよぎる。
「……そうか」
「……全部終わったように見えるけど、本当は、ずっと続いてるんだ」
 タイタスと、僕が愛しているこの世界は今日も連綿と続いている。
「だから、俺はここにいなくちゃ」
 ホルムを去っていくたくさんの探索者の一人に、あんたもどうだいと誘われたこともあった。僕は自分が去る側になるなんてその時まで一度も考えなかったのでつい反応が遅れてしまい、その様子を豪快に笑い飛ばされた(冗談だったんだろうことは百も承知だ)。
 辛いものも嬉しいものも何もかも置いて去る道もあったのかもしれない。けれど、僕は逃げるよりも真っ向から直面しようと決意した。
「あまり、無理はするなよ」
「……メロダークに言われたか」
「………」
「パリスにもそこはかとなく心配されてたし、俺最近そんな疲れてるように見えるかな?」
「………そういうわけではない、が」
 墓標の前に佇む家族を遠巻きに見つめる僕たち二人に、駆け寄る影が一つあった。メロダークがすぐ後ろを振り向き、つられて僕も彼の視線の先に目をやると、そこには人の姿をした竜がいた。
「エメク! エメク!」
 最近は自分で服を着ることを覚えてくれた、エンダが腰のあたりに抱きついてきた。以前は手加減を知らない腕力で熱烈なスキンシップをしてくれた結果肋骨が一本イって呼吸もままならず自己治療は無理だと判断しテレージャ先生を召喚したこともあったのだが、今はもうそのようなこともない。しかし、力の加減を覚えてくれたのは良いが、場の空気を読むことはなかなか覚えない。元々人間社会にとらわれない存在だからと言ってしまえば仕方のないことなのだが、とりあえずこの場は落ち着いてくれないと困る。
「エンダ、ちょっと静かにして。……で、どうした?」
「あのな、チョコもらった。エメクにもあげようと思った」
「ああ……うん、あとでな」
「エンダは今食べる。だからエメクに今やる」
「や、今はちょっと、困る」
「あとエメク呼んでた。チョコくれたやつ」
「へ?」
 ほら、とエンダが指差す先には身なりのいい家族がいる。服装の感じからいってホルムやネスの雰囲気ではない。ああまたか、と口に出しかけたとき、メロダークが何も言わずに彼らの元へ向かった。僕自身が行くより手早く済むだろうことは確かで、だからこそ申し訳ない気がした。チョコを無心にかじるエンダの頭を撫で、はるか南に広がる大河を見渡した。



 彼は僕に忠誠と信仰を誓った。彼の言う信仰とは、僕の言う信仰と同じなのだろうか。彼は僕の何を信じるのだろうか。
「英雄なんてなるもんじゃないなあ」
「………」
 机の上にあるのはご家族から頂いた葡萄酒とローストチキンだ。他になにかつまみでも作るかというメロダークの提案をそれはもう丁重にお断りしたので、腹に運ぶものも少なく酒を進める。酔いが早いな、という自覚はあったが止める気もなく、構わず3杯目をあおった。酔いつぶれたら目の前の男が運んでくれる、多分、きっと。
「メロダークはさ、俺が英雄でなかったらどうしてた?」
「……どういう意味だ」
「タイタス17世になってたら、ってことです」
 予想外の意味だったらしい、彼はわずかに目をむいてそれから沈思する。僕は黙って答えを待つ。メロダークとの間に流れる沈黙は嫌いではない。
「……そうなるとは、思っていなかった」
「や、もしなってたら、と仮定してどうかってことで」
「………お前の内の光が、塗りつぶされることは考えられなかった」
 真面目な顔をしてよく言う。彼から言わせれば僕には光があるらしいのだが、当の本人にはそんなもの見えやしない。灯台もと暗しってやつなんだろうか? そもそも、いくらかの因縁はあるにせよ所詮はただの人の身でしかない自分を神格化されても困るのだが、どんな形にせよ個人の持つ信仰を自分が否定する気もせず、そのまま彼の好きにさせている。僕が信仰についてとやかく言える立場でもないし、と考えたところで、そういえば自分は神官見習いだったなと当たり前のことを思い出す。信仰そのものを扱う職業で、大河の女神アークフィアの慈悲にすがるあわれな人間の一人だ。
 河の底で出会った彼女はどう考えていたのだろう。自分が救った人間という種に崇められる気持ちはいかなるものだったのだろう。神を敬うばかりのこの身は、神の気持ちなどついぞ考えたこともなかった。たった一人の男に裏切られて泣いたか弱い乙女が望んでいたものは信仰だったのか。
「まあ、俺もアークフィアが人間を見殺しにしてたら、とか考えないからなあ。そもそも彼女に見捨てられてたら人類はいなかったわけだし」
 メロダークは答えない。この世界は女神の慈悲が存在することの証だ。彼女に救われたからこそ僕ら人間は今こうして生を謳歌することができている。彼女の光を僕は信仰している。
 しかし、女神の慈悲を、人たる身の僕が持ち得るわけがないと、心の何処かで僕は信仰を否定している。
「僕は英雄なんかじゃない」
 のど元に押さえ込んでいた言葉を、酒を潤滑油にして押し出す。目の前の彼はわずかの動揺を見せるが、制することも促すこともなくただじっと続きを待っている。その忠実な犬のような『待て』が今はありがたかった。これから先、僕は彼の光を否定しようとしているのだけれども。
「僕が、僕自身が始まりだったと言っても過言ではない。次の憑依として選ばれた僕は呼ばれたとおりに洞窟へ向かい遺跡を暴き呪いをまき散らした。災いを止めようとして遺跡を潜ることも結局はタイタスのご希望どおり、タイタス復活に自分から向かっていたわけだった。そうしてアルケア帝国の復活を恐れた神殿軍は僕一人のためにホルムを戦火に巻き込み、更に死者は増えた」
 タイタスの憑依はテオルだったというユールフレールの声明で僕は助かったと同時に生涯にわたって外れない鉄球を舌にはめることになった。懺悔したくともきらきらした瞳で『英雄』を見上げる人々に真実を話すことは僕にはできなかった。英雄の心のなんと弱いことか!
「…………」
「ああ別にメロダークを責めてるわけじゃないよごめん、だってメロダークがやらなくても代わりの人間が城門を開けていただろう? それにバルスムスには自分からぽろぽろ言っちゃったわけだしね、あとのことを考えもせずに、僕ってやつは」
 あのときは、本殿から来た人間に事のあらましを何一つ隠すことなく伝えることが己の責務でもあると考えていたのだ。己の信仰に揺らぎを持っていたくせに、いや、だからこそ本殿に協力することで救われたいと願っていたのかもしれない。メロダーク、君と僕の間で違うことなんて実はそうないと思うよ。誰だって救われたいのは同じだろう。
「……だがお前はタイタスになることはなかった」
 ひとしきりの沈黙のあとに、不器用な言葉が返ってきた。けれど僕はまったくもって彼の期待する神聖性やましてや女神のような慈悲など持ち合わせていないので、そこにある気遣いに触れようとしない。
「ああそうだな」
「この地は救われた……だろう」
「だって死にたくなかったからね」
 身も蓋もない言い方だって? 承知しているよ、わざとそんな言い方をしてるんだ。
「僕は神殿軍の気持ちもよくわかるよ、一人を殺せば一万の人間が救われるなら、やるべきだという理屈もよくわかる。けどその一人は僕だった。理屈で考えたら僕はみんなのために死ぬべきだ――しかし死にたくはない」
 死ぬべきだと諭したかつての刺客は今どんな顔をしているのか、俯いた僕の目には映らない。
「タイタスが許せなかった。僕の大好きな人たちに苦しみを振りまく存在を僕は許せなかったし、心の底からどうにかしたいと願った。ホルムのためを思い、ホルムのために危険な遺跡に潜り? みんなが言うことは確かにそうだよ、嘘じゃない、嘘じゃないさ」
 みなのための明日を思う気持ちに嘘はなけれど、それが恐怖に塗りつぶされることはなかったと断言できるだろうか。あの白子族の街で自分は、はたしてそんな高尚な気持ちを持ち続けていただろうか。一目散に逃げ出した僕は、沢山の人が眠る丘で、軟禁生活も悪くはないかもしれないと確かにあのとき心が揺れたのだ。
「けど、何よりまず、僕は死にたくなかった。神殿軍にもタイタスにも殺されないために、僕はタイタスを討ち果たすしかなかった」
 みんなのために命を賭けて? 当たり前だ、命を賭けるしかない状況だったのだから。全ての人々の賞賛の声が、まるで深い深い河に投げ込まれたように茫洋として、河の奥底で見上げる僕の元には届かない。
「………なあ、こう考えると、僕はなんて利己的な人間なんだろうか。アークフィアの慈悲を信じなさいと語る僕自身、本当はそんなもの何一つ持ってないのかもしれない」
 女神よ、僕はあなたに信仰を捧げるに足る人物でしょうか? 二度もあなたの元を離れておいて、今更あなたを求めるのは愚か極まりないことでしょうか?
 さて僕は長々と彼の信仰の対象であるらしい僕自身をさんざんに侮辱してきたわけだが、メロダークは何も言わず、ただわずかに眉をしかめて僕を見つめている。
「………幻滅したかな? エメク教は去る者追わず精神ですゆえに、教えを去るのもご自由ですよ」
 彼の期待通りの自分で居られないことには申し訳なさもあるが、同時に重苦しさもある。メロダークが僕を見放してくれればそれはそれで楽だと思った。勿論、その何倍も、見放されるのは辛いことだけど。
「いや。それでも俺はお前を信じている」
 だからメロダークの言葉を聞いたときにはやっぱりほっとしたのと重たく感じたのとで複雑極まりなく、有り体に言えば反応に困った。黙っていると、彼が続ける。
「お前は俺を救った」
 簡潔な言いようである。まあ、本人がそう言うならそうなのかもしれない。
「まあ、目の前で人が呑まれるのを見るのはそりゃ嫌だからね」
「自分も呑まれるかもしれなかっただろう」
 黒い蛇の中から無我夢中でメロダークを引っ張り上げたことを思い出す。あのときはただ必死で、お前まで喰われるという声を聞いた気がしないでもないが、正直そんなの聞いちゃいなかった。
「それは、まあ、そうかもしれないけど」
 しかし僕じゃなくても助ける人は助けるだろう、と続けようとするが、メロダークに視線で制される。
「俺はそれでもお前に剣を向けたな」
「…………ああ」
「俺を生かすことはお前のためにならない、とわかったはずだ。共感や同情も命あってのものだ、天秤にかけるまでもなく命の方が重いとキューグも語るだろう。そして、俺はお前の命を脅かす者だと、理解していたはずだ」
 迷いながらも、迷うからこそすがるものを手放せなくて、戻ることはできない。理解できる感情だからこそ、説得はできないと感じ取った。けれど、だけれど、たとえ自分が命を落とすことになろうとも。
「………………」
「それでもお前は俺を救った」
 メロダークの瞳がまっすぐにこちらを見つめ、僕をとらえる。
 強い光が見えた気がした。
「俺がここにあることが、お前の光の証だ」
 彼は信徒である己の身をして、神の光の証明をしてみせた。僕はそれとよく似た論法を知っている。生まれてからずっと聞いてきて、唱えてきて、信じてきた言葉。
 我々がここにあることこそが女神アークフィアの慈悲のたまものなのです。
「………っ、うっ………」
 気がつけば頬を涙がつたっていた。一度堰を切ってしまえばあとはもうとめどなく、涙にあわせて嗚咽ももれはじめる。全く神様にしてはなんて情けない姿だろうと思うのだが唯一の信者はとがめるでもなくただ静かに見守っていた。それでまた僕は泣きたい気持ちに駆られ、ああ僕はずっと泣きたかったのかもしれないと思い至った。
 僕はずっと僕自身を信じることができず、アークフィアを信じようとしながらアークフィアを信じる自分を信じられないでいた。神殿は神を信じることは教えても自分を信じることは教えなかった。あるいは教える必要がないくらい世の中の人にとっては当たり前なのかもしれないが、僕にとってはこの上なく難しいことだった。僕の中の良心を探しながら疑い続けて否定し続け、存在を証明できなければ存在しないものだと思い込み、そのくせそれを誰に相談するでもなく一人で延々空回っていたんだ。ああなのに目の前のこいつと来たら僕がずっと探していたものをこうもあっさりと突きつけてくれて、本当にどうしたらいいかわからない。良心とは自分の顔のようなものなのかもしれない。人という鏡がなければ自分の目で確かめることはできないものを、僕はずっと手足やお腹に探していたのだろう。僕はくもりなき鏡を手に入れた。
 アークフィア、あなたは、人を救い、人に救われたのでしょうか?


 朝、気がついたら自分の部屋で寝ていた。朝と言ってもまだ日の出前で、しかしおそらくはいつも通りの朝の礼拝の時間で、深酒の翌朝も決められたとおりに起きる我が身を褒め称えたくなった。頭はやや重いがまあ務めには支障ない程度だろう。体を起こしながら昨晩を振り返れば、自分が潰れて運ばれたのであろうことは容易に予想がついた。運ばれる前の会話をしっかり覚えているあたり、酒の飲み過ぎというより睡魔に勝てなかっただけかもしれない。若干気恥ずかしいのでいっそ全部忘れていたら気楽だったかも知れないが現実はそうではない。さて、あの男に会ったらどうしようとりあえずお礼を言ってから……などと計画を立てていると、キィ、と静かな音を立ててドアが開いた。
「……起きていたか」
「メロダーク」
 ノックもせずに珍しい。いや、台詞からして、自分を起こさないようにしていたのだろうか。
「あー、えっと、昨日はどうもな。メロダークが運んでくれたんだよな?」
 本当は運んでくれたこと以外にも感謝したいことはあるのだが、朝っぱらからエネルギーを使いそうな話題は避けたかった。彼は黙って頷いた。
「昨日は遅かったから体が辛いようなら朝の礼拝は休むよう巫女長殿に伝えようかと思ったが……」
「いやいやそんなわけにもまいりませんて。今から着替えていくから、俺の杯もとっといて」
 若干酒臭いかもしれないが、礼拝が終わった後に体を洗い流そう。とりあえずは着替えだ。いつもの修道服に手を掛けたところで、メロダークがドアに未だ寄りかかっていることに気付く。
「ん?まだなんかある?」
「いや……」
 彼は僕を少しだけ眺めて、無感動に呟いた。
「昨日は『僕』だったが、戻ったか、と思って」
「………っ」
「先に行っている」
 わずかに息を飲んだ僕を置いてかの野郎はさっさと礼拝堂へ向かっていった。そらな、拾われた場所が神殿であの厳格な巫女長に育てられたら並の貴族より厳しく躾けられますよ、だけど人より変わった外見で下手に出てなめられるなんてよくある話でそれが神殿を離れた町の中酒場の中とかだったら尚更でパリスとも昔からよく遊んでたし探索者相手もあったしつまるところここ最近はアダの前ぐらいだったのが気がゆるんだのを何もそうそこを指摘するかこのやろー。
「あー、やだね、どーにもこーにも」
 誰にでもない悪態をついて気恥ずかしさを紛らわす。聞かれるとしたら女神くらいだ、かまうものか。
 僕に救われた、という信者がいる。僕は彼に救われて、今、ここにいる。