少女とウサギ
初めてデネロス先生と会った日がいつだったかなんて覚えていないくらい昔からわたしは先生を知っていた。お母さんとお父さんが親しみと素朴な敬愛の情を込めて使う「先生」という呼び名をわたしも真似して呼びかければ先生は穏やかに笑んでわたしの頭を撫でてくれた。薬草師である先生は雑貨屋であるわたしの親の店に商品となる薬を卸してくれる人であり、先生が薬の瓶のいっぱい入った鞄を重そうに抱えながら道を歩いてくるのを見つけるとわたしは一目散に駆けていき、運ぶのを子どもなりに精一杯お手伝いした。ありがとう、と優しい声でお礼を言われるのが好きだった。
わたしは先生がうちに来る日が楽しみで仕方なかった。それはただ単純に大人の人と喋るのが楽しいという子ども特有の思考もあったかもしれないけれど、先生は他の人にはないわたしを惹きつけるものを持っていた。
「先生、今日もお話して!」
簡素な木で出来た椅子に腰掛けて体を休めている先生に向かって、遠慮という言葉を知らない子どものわたしは己の欲求を恥じることもなくぶつけたのだけれど、先生はそれを子どもの可愛いおねだりと受け止めたのであろう。わたしが服の汚れるのも構わず地面に座るのを合図にして先生は少し勿体ぶって口を開く。
「――今日は、何の話がいいかの」
「なんでもいいよ!」
先生の話は何だって面白いのだ。デネロス先生はわたしのお父さんも知らないような遠い昔の遠い国のお話を沢山知っている。わたしのおばあちゃんのそのまたおばあちゃんの、更にそのおばあちゃんが生まれた頃よりもはるかな昔から口伝えで受け継がれてきた物語が今まさに次代の者へと語り継がれんとする、人の営みの一部に確かにわたしは位置づけられていた。
「では今日は、英雄の話をしようか。といっても今日の主役は英雄その人ではない――英雄を支えた仲間の一人、魔法使いのお話だ」
魔法使い!私はその言葉を聞いて目を輝かせ、身を乗り出した。東からやってきた悪い魔王を倒した王子と英雄のお話が嫌いな子はいないけど、わたしはそれに加えて更に魔法使いが出てくるのが輪をかけて好きだった。英雄の冒険譚だけじゃない、あるいは領主様の無茶な難題に応じてみせる賢者、あるいは勇敢な若者に力を授ける魔女、あるいは魔物退治のため地下の洞窟を探検する勇者、そのどれもがわたしの心をとらえてはなさない。そしてわたしがすっかり魔法使いに夢中になった頃、先生が一つのお話をしてくれた。
ある日、小さな女の子が、森で罠にかかっていた白いウサギさんを助けたらお礼にウサギさんが女の子に魔法の力をくれた。女の子はそれで花が枯れて悲しんでいた友達のために野原の花を一斉に咲かせ、体を壊したお母さんを治してあげて、干ばつに苦しんでいた村のために雨を降らせて彼女は一躍村の人気者となった。たったそれだけの、魔法使いが八面六臂の活躍をする冒険譚に比べたら平凡なお話だ。
けれどわたしはその女の子にこれ以上ない憧れを抱いたのだ。わたしはそれまで魔法使いという人は生まれながらにして魔法使いで、獣が人にはなれないのと同じように普通の人間が魔法使いになることはできないのだと思っていた。だけれどもこのお話の中の女の子は元々普通の子だったのがウサギさんの力で魔女になることができた。
だったらわたしも!となるのは至って当然の流れだと思わないかい?
「わたしも魔女になる!」
という幼い少女の決意の声に、デネロス先生はただ黙って静かに頷いたのだった。
で、魔法使いになろう!と志した幼少期のわたしは、しかしどうすればいいのかわからなかった。店の掃除に毎朝使うホウキを股に挟んで階段から飛び降りてみたはいいけれど飛べるはずもなく、結局膝を擦りむいてお母さんに怒られるだけで終わった。店の裏においてあったツルハシをステッキ代わりにぶんぶん振り回してそれっぽい呪文を唱えてはみたけれどやっぱり何の効果もなく、売り物に触るなとまたお母さんに怒られて終わった。他にも色々試してみた結果わたしが学んだことは、どうも魔法はわたしの独学では身につかないものらしい、ということだった。
ならばウサギさんだ、とわたしは手を叩いた。自分で魔法使いになるのが無理ならば誰かにしてもらえばいいのだ。しかしその頃にはウサギさんが魔法を教えてくれやしないことぐらいは分かる程度には分別がつく年頃だったので(ウサギさんがたまに首を掻き切ることは知っていた、何故か)、周りに誰か教えてくれる人がいないかどうか探し始めた。わたしの両親自身はそんな力があったらとっくに重労働である毎朝の商品の仕入れで使っていてもおかしくないはずで、平凡かそうでないかといったらまず間違いなく平凡の方に属しているのは子どもの目から見ても明らかだった。じゃあホルムの住人の中に魔法使いはいないだろうか、と町の中で聞き込み調査を開始したのを切っ掛けにわたしの行動範囲は広がっていった。ああこの頃だったかな、パリスと遊ぶようになったのは。いやでもそれより前だったかもしれないし後だったかもしれないし、あれ、どうだったかな……まあいいや、パリスだし。とにかくわたしは事ある毎に「魔法を使える人を知りませんか」と大人の人に聞いていた気がする。それで返ってくる答えは大体決まっていて、「奇跡の業なら神殿の人たちが使えるじゃないか」というもの。確かに神官や巫女が使う治療の魔術は魔法の一種なのだけれども、わたしが憧れる冒険譚の中の魔法使いとは種類が違うことは子どもながらにも分かっていた。今から考えれば彼ら大人は不思議な力に憧れる少女と不思議な力を外法として断ずることもある神殿両方に気を遣っていたのだろうけれど、幼い私がそんなことに気付けるわけもなく、ホルムにはお話の中みたいな魔法使いの影が見当たらないことをとても残念に感じていた。
そんなある日のこと。うちのお母さんが店の売り物を落っことして怪我をした。私はすぐにお父さんを呼んで、お父さんは急いでお医者様を呼びに行った。その間お母さんを頼むと言われて、でも私は苦しそうなお母さんを見てるだけで冷静では居られなくて、横のパリスも右往左往してて――ああこのときにはパリスはいた――、子ども二人がおろおろしているのを母が痛みをこらえながらなだめているところに、お医者様は来た。けど、それは私が知っている白い服を来た神殿の人ではなかった。
「まあまあ、落ち着きなさい」
慣れ親しんだ優しい声でその人は私たちをあやし、そしてお母さんの真っ赤に腫れた足に手を触れた。彼こそはわたしのよく知る、デネロス先生だった。ふむ、と短く頷いたあと先生は布にくるまれた長い棒状のものを取り出した。皺が深く刻み込まれた手でゆっくりと麻布がはぎとられると、中からは一本の杖が現れた。お爺さんの杖といったら普通は歩くためのものだろうけど、わたしは一目でそうではないと感じとった。第一それが布にくるまっていたことからもわかるように先生は歩くためにそれを使ってはいなかったし、それに、装飾に使われているきらきらとした石が、杖自身が特別であることを主張していた。
「……――………――――」
先生はわたしにはわからない言葉で何事かを囁きはじめた。多分今のわたしでも聞き取れないであろうそれは、神官の使うものとは微妙に違うが、同じように人体の痛みを緩和する効果のある奇跡の業だった。お母さんの額をつたっていた汗がひき眉間の皺が和らぎ、わたしはお母さんが大丈夫になったんだとわかった。デネロス先生は持ってきた鞄をあさり、うちでも取り扱っている独特の匂いのする瓶を一つ手に取り、中身をすくってお母さんの足に塗った。
「二、三日はこれを塗っておきなさい。今は痛みを止めたが、半日したらぶり返す。無理に動こうとせず、しばらくは休んでおきなさい」
穏やかな口調で先生は言った。しかしわたしはもはやそんなことはどうでもよくて、先生と先生の持つ杖をじっと、じーっと見つめていた。わたしの視線に気づいたお爺さんは少し困ったように微笑み、そして、杖を持ちながらまたわたしにはわからない言葉を呟いた。すると鞄の中から何やらの袋が2つ勝手に浮き上がり、わたしとパリスの手に落ちた。中身は美味しそうな焼き菓子で、それでも食べておきなさい、と先生は優しい笑みを浮かべた。
実はあのときちょっと調子にのってたでしょ、デネロス先生?
わたしはデネロス先生が魔法を使えるということをそのとき初めて知った。うちからは基本的に先生の家より神殿の方がやや近いので何かあったら神殿を頼ることが多かったのだけれど、そのときはたまたま近くにデネロス先生がいたから駆けつけてきてくれたそうだ。わたしは非常に、おおいに、興奮した。神殿の人はむやみやたらに力をひけらかすことは絶対にしないし、デネロス先生もそうだけれど、先生はまるでお話の中の賢者みたいに困った人を助けてくれる。わたしはデネロス先生がいいと思った。わたしがなりたいのはデネロス先生みたいな人なのだ。口を重くした両親にこれでもかというくらい質問攻めをして、デネロス先生が北西の町はずれの森の中に暮らしているということだけをどうにか聞き出すと、翌日には私の足はそこに向かっていた。
わたしが己の庭としていたところは主に町の中心部の広場やそこから繋がる街路のあたりで、例えばパリスの家の裏道からどこをどうすり抜けていけば港に一番早く着けるかなどということは知っていたのだけれど、反面北の森、しかも西側の方にはとんと縁がなかった。森で遊んだことがなかったわけじゃないけれど、自分や一緒に遊ぶ子が把握している範囲でしか行動したことはない。要するに、勝手の分からない森の中を進むのはそれが初めてだった。わたしは森というのをなめていた。人が通るための細道があったから、それを頼りに進んでいけばいつかデネロス先生のおうちに着けるだろうと半ば楽観的に考えていたのだが、途中の分かれ道でわたしは深く考えずに左に進み、先に行くほど段々と道が細くなっていき、むき出しの斜面の上を通るようになり、ついには途切れてしまった。間違った、こちらはもう使われていない道だ――と踵を返して引き返そうとした瞬間、地面の石が、あざ笑うかのように私の足を取り、私はおよそ3メートルはあろうかという急斜面を転がり落ちた。
そりゃ痛かったさ。幸い長袖長スカートだったからそこここに散らばった木々の枝による被害は少なく済んだものの、ところどころ打ったし、手はすりむいたし、もう斜面の上には戻れそうにないし、わたしは状況を把握したあとぐっと涙ぐんだ。けれどいくら泣いても誰も助けには来てくれないということを思うと変に冷静になって、私は結局大泣きすることはなく静かに立ち上がり、とにかく戻ろうと決意して歩き始めた。自分が来た道には戻れないが、方向さえ合っていればどうにかなるだろうと、やはりわたしはまだ楽天的だった。
どれくらい歩いたかは覚えていない。子どもにとっては延々と長い時間のように思えたけれど、それは今から思えば道がわからない不安な状況だったから長く感じられただけで、実際は十分も経っていなかったかもしれない。けれどとにかくその時点では主観的な時間がわたしにとって絶対で、わたしはこのまま迷子になって誰にも見つけてもらえずここで死んじゃったらどうしよう、などという悲観的な妄想をようやく頭の隅で考えはじめ、不安はさらに加速した。来た道とはどうも違うところに来てしまったようで、それも更に焦燥を駆り立てた。
お母さんごめんなさい、とわけもわからぬ謝罪が口をつきかけたところで、木々の向こうに広がる草っ原を見つけた。わたしは転ばぬように、しかし急いで真っ直ぐにそっちへ向かった。森を抜けるとそこは若々しい草が生えていて、それを山羊が一生懸命に食んでいた。放牧用と思われるそこは山羊が逃げ出さないようにちゃんと柵があって、ここには人が来る、とわかった。とにかく助かった喜びでわたしは胸がいっぱいになり、とりあえずここはこの嬉しさを山羊に報告しようとしてのんきな顔をしている一匹の老いた山羊にわたしは突進していった。
そこで、わたしは山羊のむこうに人がいることに気づいた。柵と同じくらいの背丈しかない子どもだ。ほとんど同じぐらいに彼もこちらを見つけたらしい。わたしと彼は目が合い、ちょっとだけそうして見つめ合ったあと、わたしは予定を変更して一目散に少年の方へ駆けていった。彼は呆然と立ちつくしたままわたしの来るのをそこで待っていた。
「こんにちは!」
知らない人にはまず挨拶だ。わたしは商売人の家仕込みの爽やかな笑顔を彼に向けた。一方で目の前の子どもはますます動揺したようで、わたしを食い入るように見つめているけれどもお返事はしてくれなかった。
ウサギさんだ、と思った。いや、もちろん相手は人間なんだけれど、わたしは彼を見てウサギさんみたいだと感じたのだ。服こそ簡素な木綿でどことなく茶色ばんでいたけれど、そこからのぞく手と私と同じくらいの位置にある顔はこれ以上なく真っ白だった。こんなに透き通るような肌をしている人は女の人でもわたしは見たことがなかった。その上彼は髪まで真っ白で、子どもはみんな髪が細いけれども特にこの子は細くて、短く切ってはあるけどいかにもさらさらそうで撫でたら気持ちいいだろうなあとわたしは思った。そして何より特徴的なのが真っ白な中で異彩を放つ真っ赤な目だった。どんなに綺麗なルビーもこの瞳より輝くことは出来ないと思う。そう真っ白な毛に真っ赤な目といったら白いウサギさんだ。わたしはそんな彼が珍しくてついついじっと見つめてしまう。彼はそれに居心地悪そうにしつつも、黙っているのは更に具合が悪いと思ったのか、小さく口を開いた。
「………ちわ」
こんに、はどこへ行ったのだろうと思いつつ、わたしは彼が挨拶を返してくれたことに満足する。ウサギさんみたいな彼と意思疎通できたことが嬉しくてわたしはにっこりと笑みを浮かべると彼は更に戸惑ったようだった。
「…………だれ」
短い疑問詞のみの言葉だったが、それだけでも意味は通じた。わたしは自分の名前を即答する。
「わたし?わたしはネル!あんたは?」
いい加減『彼』とまどろっこしい呼び方をするのも飽きた。わたしは彼に自己紹介を促す。
「……………………アベリオン」
たっぷりの沈黙のあと、これ以上ない端的な答えがわたしの耳に届いた。ねえ、今から思えばあれさあ、人見知りしてたのかな? アベリオン!
「アベリオン? ふーん」
わたしは彼の名を繰り返し、頭の中で自分の知ってる名をさらう。こんな色した子ども見たら絶対忘れないから直接会ったことはないはずだが、人づてに聞いたこともなかった。噂にもなっていないということは、少なくともわたしの友だちの中でこの子を知っている子はいなそうだ。だってわたしだったら間違いなく言う。みんなに言う。帰ったらパリスに言う。
「ねえ、ここで何してるの?」
わたしの興味はすっかり目の前のアベリオンに向いていた。森の中を涙ぐみながらさまよい、ようやく脱出できたと思ったらこんな神秘的な子を見つけたのだ。わたしの興奮がそこに向かわないほうがおかしい。
「……山羊の世話」
返事の前の沈黙が短くなってきて、わたしはそれをいい兆候だととらえる。古今東西老若を問わず、女の子はお喋りが大好きだ。わたしは彼ともっともっとお話してみたいと思い、口を動かす。
「へえ! 一人でやってるの?」
「……うん」
「世話って? あ、草食べさせてるのか! すごいね、ねえねえ山羊さんは何匹いるの? 触っていい?」
「え、あ、さわんな、そいつ逃げる」
「あ、そう? ごめん」
ぶすっとしていた彼が少し焦ったように、山羊に寄ろうとしたわたしに手を伸ばす。白い手が本当に綺麗だなあ、と思ったことをよく覚えている。
「ね、アベリオンだったら逃げない?」
「あー、うん」
「じゃあアベリオンが撫でてよ!わたしは後ろから見てるから」
「………なんで」
「いいからいいから!」
ぐいぐいっと彼の背中を押すと面白いように彼はつんのめり、押すな痛い、と文句がつけられた。そんなに強くした覚えもないのだが、とりあえずわたしはそこで手を彼の背中にそっと当てて背後から山羊をのぞき見る。ついでにアベリオンのほっぺたも見る。おお、白くてふにふにしててなんか美味しそうだ。
「……………」
彼は憮然としながらも山羊に近寄り、首筋に手をあてゆっくりと撫で下ろす。山羊は気持ちよさそうにしていた。わたしはアベリオンの手と山羊の毛どっちが白いだろうかと見比べていた。彼はそうしてしばらく撫でたあと、首輪に縄を無言で通し、その縄の先を柵に結んだ。どうやら放牧は終わりらしい。私から見える限りあと一匹のんびりと柵の中を歩いている山羊さんがいたが、アベリオンはすたすたとそっちへ歩いていった。
「もう終わりなの?」
「うん」
なんとか彼に二行以上の返事をさせてみたいものだが、子どものわたしにはなかなかそのような答えを引き出す質問を考えるのは難しかった。なので思いつくまま気の向くままに私はお喋りを続行する。
「ね、アベリオンのおうちはこの近くなの?」
再び思い返せば、自分でそんなこと言った辺りで気づいても良さそうだったのだけれど、その時点で既に自分が山の中で遭難しかかっていたことも忘れ去ってしまっていた鳥頭にはそれは過ぎた要求で、デネロス先生のことなどすっかり頭から抜け落ちていたわたしは彼と先生の繋がりなんてまったくこれっぽっちも思い浮かべなかった。
「……うん」
「へー、じゃあさ、おうちの人もアベリオンみたいに真っ白なの?」
わたしはそれなら会ってみたいと思った。アベリオンも綺麗だけど、こんな真っ白なお母さんがいたらきっともっと綺麗だろうと思った。お父さんは、どうだろう、ちょっと綺麗すぎて怖いかなあとわたしは勝手に彼の家族を思い浮かべた。
アベリオンは、眉をわずかに動かして答えた。
「………ちがう」
「……へー」
そうか違うのか残念。でもそしたらなんでだろう。子どもは時に残酷に、はばかることなく思ったままの疑問を口に出す。
「じゃあアベリオンだけ真っ白なの? どうして?」
アベリオンは眉間に明確に深い皺を寄せた。
「…………しらねー」
そうか知らないのか。わたしはますます彼を不思議に思い、思ったらとりあえず行動してみるのがわたしの今も変わらぬ信条だ。わたしは彼の手をぱっと取り自分のものと見比べた。アベリオンはあからさまにうろたえたようだったけれどそんなことよりわたしは小さな二つの手を注視するのに忙しかった。色の白い人、というのは身の回りにも何人かいたけれどもアベリオンのそれは次元が違うように思えた。まるではじめから色なんてないようだ。わたしはアベリオンの手を上に持ち上げて元気な太陽の方に向けた。日差しを一身に受け止めてはじき返すその白は真っ白な雪原を思わせたけれど、私と同じくらいの大きさの手はちゃんと同じくらいあたたかかった。
「なんだよ、離せよ!」
アベリオンが抗議してようやくわたしは彼の手を離した。その目は不審に染まっていたけれど、わたしは構わず思ったとおりにまくし立てた。
「ねえあんた、本当に真っ白だね。あ、でも目は白くないよね、真っ赤だもんね。本当にウサギさんみたい!」
誓って言うけれども、わたしは侮蔑だとか嘲りだとかそんな意味を込めて発言したわけではない。むしろわたしの心は感激だとか驚嘆だとかそういったものが占めていたわけだけれど、うんまあ、何も考えずに言っちゃったのは事実だよ。
「…………ざけんな」
アベリオンが、子どもらしい高い声の中では最も低いと思われる声で、呟いた。わたしはそのときようやく目の前の少年の機嫌が急下降していることに気づいた。いやだって最初から愛想なかったからわかりづらかったんだよ。
「ウサギなんかじゃねーよ! 俺はちゃんと人間だよ!」
いきなり怒鳴られてわたしは唖然としてしまった。どうやら自分は彼を怒らせるようなことを言ってしまったらしいということには何とか気づいたが、それが具体的になんであるかまでは思い至らないくらいには、子どもだった。
「え、うん、そりゃそうだけど、え、でも、ウサギさんみたいだなって」
わたしにとってのウサギさんというのは決して悪い象徴ではない。むしろ可愛らしくて、ふわふわで、綺麗で、そのうえあの女の子には魔法を授けてくれたりまでした、良いものの代表だったのだ。だからわたしは褒め言葉のつもりでウサギさんの五文字を繰り返した。それが更に相手の激昂を買うともしらずに。
「……っ、違うって言ってんだろ! バカ女!」
彼は山羊を連れて半ば走るようにしてわたしから去ろうとした。去り際に罵られたものの何が何だかわからなかったわたしはそれに対する怒りは湧いてこず、むしろわたしは焦り慌てて彼を追いその腕をひっつかんだ。ここで置いていかれたらまたわたしは森の中であてもなくさまよう運命に落ちていかざるをえないのでわたしは必死だった。
「え、ごめん! ごめんって! ちょっと待ってよ!」
「っだよ、いてーよ、離せよ!」
とりあえず謝ってみるけれども特に効果はないのはわたしが力のセーブを忘れて思いっきりアベリオンの腕を握っていたからだろう。アベリオンは痛い離せと言うが、わたしはわたしで離すわけにはいかない。自慢ではないが近所の子どもたちの中では腕相撲ランキング不動の1位に君臨していたわたしだ、それなりに自分の力のことはわかっていたので、とにかくつかまえてからどうにかしようと考えていた。予想通りアベリオンは自身を縛る私の右手の手首を握り返して離させようとしたけれども、そんなことじゃ今更わたしの手はびくともしなかった。相手が落ち着いてくれるまでこのままでいて、諦めたら謝って機嫌を直してもらって、それから彼の家に連れて行ってもらおう。わたしの頭の中にはそのような算段があった。
アベリオンは粘ることなくすぐに諦めた。わたしの手首から手を離したので、これで話を聞いてもらえるかな、と少しほっとした。けれど彼の目は剣呑なままでわたしをじっと睨んでいて、うう、これは骨が折れそうだ、と胸裏で泣き言をもらしたときに、気づいた。
彼が腰に差している、わたしが今まで放牧の山羊追い用だと思っていた木の棒は、よく見たらそんなほのぼのした用途には不似合いな輝く石が何個か埋め込まれていた。わたしはこれとよく似たものをどこかで見たことがある。アベリオンがそれを手に取ったときわたしは記憶をさらい、母が怪我をしたあの日を脳裏に浮かべたその瞬間、彼は口を開いた。
「――……―――…―」
何を言っているのかはわからないけど、何がしたいのかだけはわかった。不思議な響きの囁きが終わった途端、アベリオンをつかまえるわたしの右手に重なるようにして光が出現した。光はすぐにわたしのよく知る形、炎に変化し、わたしの手を炙る。
「うわっ!」
わたしはすぐに手を離した。一瞬だけれども確かにかまどに手を置いたような痛みがわたしの手を襲う。けれどすぐに炎は勢いをなくし、空気に溶けるように消えていった。こんな炎、普通じゃまずありえない。普通はこんな都合良く現れて都合良く消えない。わたしは目の前の少年の顔をばっと見る。
彼はいたって平然とした顔をしていた。驚いている様子もない。間違いない、これは、彼が使った、魔法だ!
「さわんな」
アベリオンは短い拒絶の言葉を述べて、それで十分だろうと確信したようにゆっくりとこちらに背を向け歩き出した。わたしはしばしその背を見つめて呆然とする。
森の中で出会ったウサギさんが、魔法を使ったのだ。そのときのわたしの興奮はいかばかりだったか、お察しいただきたい。
「……まってー!!」
逃がすものかといわんばかりの気合いをこめてわたしは後ろからタックルをかまし、アベリオンの背中に突撃した。ごふっという低い呻きとごきっという嫌な音が聞こえた気もしたがそんなことはどうでもいい。わたしはアベリオンを背中から抱え込むようにして両手をまわし腰に差した木の棒ごとがっちりとホールドする。結果的にその体勢はアベリオンが焦点具を引き出せない形になったので知らないでやったこととはいえ過去のわたしはナイス判断だったと言わざるを得ない。
「いっ、てめっなん」
「ねえねえ今の魔法でしょ!? 魔法だよね!? すごいすごいすごい!! どうやって使ったの、誰に習ったの、ねえわたしにも教えてウサギさん!!」
腕の中で懸命にもがくアベリオンにむかって無我夢中で感動と感激をまくしたてた。御伽噺の中の話が、少し違う形――罠にかかってもいなかったし、多分助けてもらったのはこっちだし、ウサギさんみたいな人間だったけれども――で我が身にも実現するかもしれないと思ったのだ。こんなチャンスは今後絶対にないとわたしは思っていて、だからこそ腕の中の力もぎゅうぎゅうに込めた。
「だからウサギじゃねえって、って、いてえ! 離せバカ! 馬鹿力!」
「離したら魔法教えてくれる!?」
「やだ! なんで俺が!」
「教えてよー!」
「いででででで離せえええ!」
しばらくその取っ組み合い――というには、わりあい一方的でもあったのだけれど――が続き、わたしは少年の子ども特有の細い腰をがっちりと掴んで固定して離さず後ろから魔法を教えてと頼み込んだのだけれど、多分意地になったのであろうアベリオンは頑としてそれに是と言わず、事態は膠着状態に陥りその様子を山羊だけがどこか呆れたように見ていた。ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てるわたしたちの声は森の中にも響いたのだろう。だから、あの人が様子を見に来たのだ。
「……アベリオン?」
「………あ」
「……先生!」
わたしが来た方向と反対方向に延びていた細い道から、見たことのあるお爺さんが姿を現した。わたしはようやくそこで自分がここに来た本来の目的を思い出し、アベリオンをつかまえる腕をぱっと離して先生に向かって頭を下げた。
「こんにちは、先生!」
これから教えを請おうとする人物には礼儀を正しくしなければいけないと、文字を教えてくれる神殿の先生に私は教わった。アベリオンはわたしから解放されたとたんうずくまり腰をさする。そんなに痛くはしてなかったと思うんだけどなあ。
「ああ、こんにちは」
デネロス先生は一応の挨拶を返したところでわたしとアベリオンを交互に見比べた。どうやらどういう状況かいまいち掴めていないらしい。それはわたしも先生の顔を見て判断出来たが、困ったことにわたしもいまいち今の状況がわかっておらず、先生と一緒になって首を傾げた。
「帰ってくるのが遅いから、見に来たんだが……」
だが、どうしたのだねこれは。はい、それは、えーと、魔法を習おうとして、森に入ったら迷って、道に迷ったら山羊さんがいて、ウサギさんみたいな人間もいて、ウサギさんが魔法使って、えーっと、駄目だわたしもよくわかってない。けどとりあえず黙っているのもなんだと思い、説明しようとした寸前、アベリオンの方が早く叫んだ。
「……こいつが! 邪魔したから!」
こいつ呼ばわりはちょっとひどいんじゃあないかな?と思ったけれど、見下ろしてみるとそこには本当に痛そうにしているアベリオンがいて、ちょっとした罪悪感が湧いてきたので何も言い返せなかった。うう、悪かったよ。
「……君は、雑貨屋の子だね。どうだい、あのあとお母さんは」
先生はこちらを見下ろしてにっこりと微笑んでくれた。わたしは先生がお母さんのことを覚えていてくれたのが嬉しくて、元気いっぱいにお返事をする。
「うん、えーと、もう歩いてる! 大丈夫そう!」
「それは良かった」
「はい、ありがとうございます!」
先生は変わらず優しそうな声をしていて、わたしはその声が大好きだった。わたしと先生が朗らかに話しているのをアベリオンはむすっとした表情で見上げていた。
先生がアベリオンに手を貸そうとすると、彼は黙って自力で立ち上がった。その時初めてわたしはこの二人は知り合いなんだろうかと遅まきながら思った。
「で、君はまたどうしてこんな辺鄙なところにいるのかね」
先生は責めるでもなく心配するでもなくただ純粋に不可思議な様子でわたしに問いかけた。わたしはわたしがここに来た経緯を解説しようと自らの記憶を探る。
「えーっと、魔法をですね」
「魔法?」
先生が疑問符をつける形で相づちをうつ。その横でアベリオンが慌てたようにしてわたしの言葉を遮った。
「バカ! 言うな!」
え、なんでそんな、ていうかあんたわたしの来た理由知らないじゃない、と反論しようとしたが、すぐさま心当たりに思い当たった。そして思ったことをすぐ言ってしまうのは、子どもだったから仕方ないんだよ。
「あ、これのこと?」
わたしは右手を顔の前に持ってきて指さした。炎を受けた手の甲はほんの少しだが赤みがさしている。別にわたし自身はそんなの屁でもなかったし、強いていうなら転んだときの痣や擦り傷の方が痛かったので特に気にしてもいなかったが、先生はわたしのそれを見てさっと顔色を変えた。先生がわたしの手を慎重に取って言った。
「これは……どうしたのかね」
先生は極めて真剣だった。それを見て、これはわたしも真剣に答えねばならないと感じた。
「えっと、わたしがアベリオンをぎゅっとして、そんで手を離そうとしたんだけど離さなかったから、木の棒取って、なんかわからないけど、先生みたいなの言って、そしたらわーって光って、炎が出て、そしたらすぐ消えて」
そう、それでわたしはいたく感動したんです、という言葉は続かなかった。先生が怒っているのが、黙っててもわかったからだ。わたしは何をしただろうかと一瞬焦ったが、わたしよりもはるかに焦って顔面蒼白だったのは、アベリオンだった。
「……アベリオン」
先生が静かにアベリオンの名を呼んだ。アベリオンは、見ているこちらが可哀想になるくらい必死になって叫ぶ。
「……だって! 俺そいつに離せって言ったけど離さなかったから! そいつが俺の悪口言ったんだし! 先に痛くしたのはそっちだって!」
わたしはアベリオンのその様を見て事態を把握した。おそらくわたしは、結構洒落にならない、告げ口をしてしまったのだ。
「……アベリオン。来なさい」
もう一度先生がさっきよりも低めの声で呼ぶ。アベリオンは言葉に詰まり、しかしその場を動けずにいた。
「アベリオン!」
先生が叫んだ。アベリオンはびくっと体をこわばらせ、たっぷりとためらったあと、すごすごと先生の前に歩み寄った。わかる、わかるよその気持ち、これから怒られなきゃいけないときのヤな気持ち。
アベリオンはただうつむいて立ちつくしていた。先生はその正面に立って、一呼吸置いたあと、握った拳を振り下ろす。
「………っ!」
うわあ。声にならない声で痛みを耐えるアベリオンを見てまるでわたし自身がゲンコツをくらったかのような気分になってしまう。正直わたしはそんなに悪いことをされたと思っていなかったのでなんだかとても申し訳ない。
「痛いか」
アベリオンが先生の問いに無言で首を横に振るけれど、同じ背丈の私からは彼が涙ぐんでいることがはっきりとわかってしまう。大粒の涙がいまにもこぼれ出しそうだ。
「だが、お前はこれよりも痛いことをしたな」
すいません多分それよりは痛くないです、という言葉は言えなかった。多分そういう問題でもないだろうことは子供心にもわかっていたけど、それ以上に、大人のお説教には口を挟めないのが子どもという生き物なんだ。
「っ、うっ、うー……!」
アベリオンはすぐに限界が来たらしくてぼろぼろと涙をこぼして泣きはじめた。汚れた袖で彼は力任せに目元を拭い、精一杯声を抑えようとしている様子が見ていてとてもいたましかったことを覚えている。考えればあんた、昔っから泣き虫だったよね。
「儂は人の手を焼くためにお前に炎の魔術を教えたと思うか」
先生が穏やかに、けれど厳しい声でアベリオンを諭す。彼はやはり無言で首を振った。多分何を言ってももうしゃくりあげてしまってまともに話せはしないのだろうけれど。そしてここでわたしは初めて、彼が先生に魔法を教えてもらっているということを知った。
「ならばなぜこんなことをした?」
先生がぐいっとわたしの手を引っ張った。手の甲より正直擦りむいてる掌に先生の指が触れる方が痛いけどわたしはただ黙っていた。
「……って……、だって、そいつが……! 俺、だって、痛……かっ、た…のに……!」
アベリオンは自分ばかりが叱られるのがひどく不満らしかった。反対の立場だったらわたしもそう思うかもしれない。わたしはちょっと自分の胸が痛み、懺悔の決意を固めた。
「先生、あのね、違うの。あのね、最初にね、わたしが怒らせちゃってね、それでね、謝ろうとしたんだけどね、待ってっていってね、ちょっと強く掴んじゃってね、痛いって言われたけどわたし離さなかったの、だからね」
「だから炎で焼いたのか」
けれども私の援護射撃はとても援護にはならなかったようだった。先生はアベリオンを問い詰め、アベリオンは何も言えなかった。
「………お前がそのような使い方をするなら、儂はもうお前に魔術など到底教えることはできん」
なるほど先生はこういう使い方はお気に召さないらしいのでわたしが魔法を習うときはそれだけはやめよう、などとちょっとだけ考える。アベリオンは淡々とした先生の言葉を聞いた途端涙と鼻水で汚れた顔をがばっとあげて、不満をめいいっぱい顔に表して首を横に振った。
「……やだ……!」
「言っただろう。力は正しく使え、と。儂はお前が正しく使えると信じて術を教えた。しかしお前は儂の信頼を裏切った。違うか?」
「……うー……!」
「約束を破った者に教えることはない」
「やだっ………いやだあっ………!」
アベリオンはひたすら首を横に振り続けていやだいやだ言い続けた。その様子を見てた当時は多分「アベリオンは魔法を本当に習いたいんだな」としか思わなかったんだろうけど、よく考えたらそこまで必死になるのも無理はない話だよね。だって、弟子として育ててもらってるのに、それが弟子でなくなるとしたら、ってことだもんね。
アベリオンは左手を伸ばして先生のローブの端をぎゅっと握っていた。相変わらず右手はとどまることを知らない涙を拭うのに忙しく、わたしは彼の様子を見ていていたたまれなさが限界に達していた。いくら自分が怒られているわけではなくともお説教の場面に立ち会うのは心底しんどいことなのだ。
先生はそろそろいいか、と頃合いをはかっていたようだった。
「………ならば、もう二度とこのようなことをしないと誓うか」
アベリオンは泣きながら頷いた。
「全てを力で解決しようとはしないな? 知識が詰まったその頭を、やたらに魔術をふるうでなく、まず人と話すことに使うことを誓うな?」
アベリオンはまたこくこくと頷いた。力で解決しようとはしないな?のあたりでわたしの胸もちくりと傷んだ。いや謝ろうとは最初にしたんだけどさ、うん、あんなに強く掴むことはなかったかもしれない。ごめんね。
「では、謝りなさい」
先生はアベリオンの頭を撫でた。その手つきは優しくて、わたしはいくらか安心する。
「……ごめん、なさっ……」
「人を幸福にする力を、傷付けることに使って、ごめんなさい」
「………ひとを、こうふくにする、ちからを……きずつけることに、つかって、ごめんなさい」
「儂だけでなく、この子にも、謝りなさい」
先生はアベリオンの体をこちらに向けて謝罪を促した。泣きはらしたアベリオンの顔を真っ正面にとらえてわたしの体はこわばる。森で会ったばかりのときにはあんなにもふてぶてしかった少年が、いまや元々の目だけじゃなくて目元まで赤くして、呼吸に合わせて肩まで上下させて弱々しい表情をしているのがわたしには少し信じられなかった。
「……………ごめん、なさい」
アベリオンは小さい声で呟いた。何はともあれ謝ってくれたなら、謝られた側の取るべき行動は一つだ。
「うん、いいよ」
もういいよ。そう言うとアベリオンはどこかほっとしたような表情を浮かべた。
「あのね、わたしも、ごめんね」
多分わたしも彼の気に障ることをしてしまったのだからそれを謝らなければいけない。彼があんなに怒られるほど禁じられていた炎を使うまでに彼を不愉快にさせたことをわたしは申し訳なく思った。
「痛かった?」
尋ねるとわずかな間の後、ためらいがちにアベリオンは小さく小さく頷いた。わたしは更に申し訳なさが増して言葉を紡ぐ。
「今も、痛い?」
アベリオンはそれにはすぐ首を横に振った。わたしは少し安心して彼の左手の手首を優しく撫でる。アベリオンは抵抗しなかった。
「もう、しないようにするね」
だから、許してくれる?ときくとアベリオンはゆっくり頷いてくれた。わたしたちのこんなぎこちないやりとりを先生はただ黙って見守ってくれていた。
「だからね、あのね」
わたしは頭の中で精一杯今の自分の気持ちに当てはまる言葉を探し出した。何故かこんなことになってしまったけれど、わたしは別にアベリオンに怒っていたわけじゃないし(怒られてはいたけど)、お話もまだ途中だったからその続きもしたいと思っていた。どこに住んでるのとかまだ聞いてないし、それに何より肝心の魔法を教えてもらう約束をまだ取り付けていない。デネロス先生に習うつもりだったけれど、いや今でもそのつもりはあるけど、年の近い子に色々聞いてみたい気持ちもあったのだ。だからわたしはこれらの思考をまとめて、一言で表現した。
「友だちになってくれる?」
わたしにとっては正しい道筋を通って出た当然の結論だったのだが、アベリオンにとっては予想外の言葉だったらしく彼は完全にどうしたらいいかわからない様子で固まっていた。そればかりか、アベリオンの横に膝をついて彼の肩に手を置いていたデネロス先生ですら驚きの表情を隠せないでいる。アベリオンが答えに窮して、赤い目でじっとこっちを見ている時間がだんだん退屈に思えてきたあたりで先生が助け船を出した。
「……この子と、友だちになってくれるのかね?」
「なってほしいの!」
わたしは即答した。この子と一緒に遊んだらきっととても楽しいに違いないとわたしは思っていた。手を焼いちゃうのが駄目でも人を幸せにするために使うのがありなら、例えば木を切ってそこで火を起こすのとかは全然ありなはずだ。うまくすればそれで色々、焼き芋とか出来そうだ。
「……ふむ」
アベリオンは困ったような顔をして、顎髭を撫でながらじっと考える仕草をしている先生を振り仰いだ。先生はやがて二匹の山羊の縄を手に取り、私たちを残して歩き始めた。
「山羊は儂が戻しておこう。……遊び疲れてお腹が空いてきたら戻ってきなさい。そのときは、友だちも一緒にご馳走しよう」
先生はそれだけ言い残して去っていき、後には呆然としたアベリオンと喜色満面のわたしのみが残されることとなった。
「ねえねえ、もう一回! もう一回炎出してみせて! あ、あとデネロス先生に習ってるんだよね!? ねえどこに住んでてどこで教わってるの!? ねえねえったら!」
猫どころか象も殺せそうな私の好奇心いっぱいの質問攻めにアベリオンが辟易するのは一分もいらなかった。
私が迷った森の中で会ったアベリオンという少年はデネロス先生の家で弟子として育てられており、一緒に暮らすかたわら薬の調合や魔術などを習っていると聞いた。二人だけで生活していると聞いたとき、パリスと同じかな、と思ったけれどもついデネロス先生とは血が繋がっているのかどうか尋ねてしまい、それに対してアベリオンは怒ることもなく自分は捨て子だったと話してくれた。そのとき、絞り出すようにして「……俺が、こんなだから」と言ったとき初めてわたしは自分のウサギさん発言を恥じた。もう一回ごめんねと繰り返すとアベリオンはむすっとしながら、もういい、と言ってくれて、案外この男の子は優しいのではないかとわたしは感じた。
デネロス先生のおうちでご相伴にあずかり、その席でわたしは「魔法を教えてください!」と頼み込んだ。わたしは自分の夢を滔々と語ってみせたがデネロス先生の反応は芳しいものではなく、これは噂のジャパニーズドゲザまでしなければならないかと考えはじめたとき横でスープをすすっていたアベリオンが「……いいじゃん、別に」と素っ気なく、しかし明確に賛成してくれたときは彼が天使か何かのように思えた。デネロス先生はアベリオンの言葉を受けてわたしの弟子入りを認めてくれた。しかしいきなり魔術は駄目らしくまずは調合を覚えなさいと指導されてしまい、若干テンションは下がったがまあそれは許容範囲内だった。千里の道も一歩からというし魔女はお薬を何でも作れるものらしいし、何より、デネロス先生の家に来る用事がどんなものであれ出来るならそれでとりあえずは満足だったのだ。
晴れてわたしの兄弟子となったアベリオンは、妹弟子として評価するならば、とにかく頭が良かった。わたしが神殿で出されるたっぷりの読み書きの宿題に辟易している横で彼はすらすらと大人用の本を読んでいた。そんなものが読めるのか聞いてみるとむしろ読めないことの方が信じられないといった反応を返されたわたしの心中を三十字で正確に述べることができたらネルお姉さん特製魚のスープを進呈しよう。いつも忙しい農家の子やわずかなお金も払う余裕のない家の子は神殿に来られないことは知っていたけれど、神殿に来る必要のないくらい頭の良い子、という子がいることをわたしは初めて知った。しかも貴族でも何でもない子だというのだから驚きだが、そのあたりは考えてみればどんな貴族がつける家庭教師よりもすごい人がお師匠様なのだから当然と言えば当然だったのかもしれない。そんなアベリオンと友だちになったわたしは、もちろんそれを有効活用しないことはなく、とにかく神殿の先生から渡された本でわからないところは片っ端からアベリオンに聞いた。アベリオンはその度にそんなのもわかんねーのバカじゃねーのとひどいことを言ってくれながら熱心に教えてくれた。きっと自分が教える立場に回ることが楽しかったんだろうと思う。しまいには聞かないでも横から口出ししてくるようになったのでうるさーいとわたしが怒鳴るハメになった。アベリオンは本当にわたしが『よいこの神話』すら満足に読めないことが理解しがたいらしくバカにするのでわたしは神殿の中ではバカな方じゃないよ!(利口な方でもなかったが)と反論するとまた彼は本当にびっくりしていた。わたしはどんな難しそうな本でも読んでしまうアベリオンが、同年代の子はそこまで達者に文字を読めないというそんな当たり前のことすら知らないことに驚く。聞けばアベリオンは物心ついてからずっとホルムにいるけれども町の方にはほとんど行ったことがないらしく、森の中で先生と一緒に、先生が診療に出ていっているときは山羊と一緒にいるだけだったそうだ。わたしだったら退屈すぎて町に遊びに行っちゃうけどなあ、と感想を述べると彼は少しだけ間をおいてから「本があるから、別に」と答えた。
アベリオンが山羊の世話に行っている間に少しだけデネロス先生が彼について語ってくれたことがある。先生の診療についていかないのは勿論のこと、先生の庵にお客が来てもアベリオンは奥に引っ込んで姿を一切見せないらしい。「多分、昔儂の知らない間に町へ行って、そこで嫌な思いをしたのではないか」と先生は言った。わたしは初めて会ったとき彼が珍しくてじろじろ見てしまい、あまつさえウサギさんみたいだと言ってしまったことを思い出した。わたしはそのことを正直に言うと、デネロス先生は優しい声でお前さんは悪くないと言ってくれた。けど、それを言うならアベリオンだって悪くないはずなのに、なんでそんな隠れるような生活をしなければならないのかと思うと自分のことでもないのにわたしは腹が立った。
「だからお前があれの友だちになると言ってくれたとき儂は本当に嬉しかったんだよ」
先生の目が穏やかに細められた。わたしもね、アベリオンと友だちになれたことが、本当に嬉しかったんだよ、先生!
わたしがデネロス先生のところで修行なるものをしていることを知っている人は、まず第一に両親だった。わたしが調合のお勉強をすることには両親は寛容で、家に帰ったらまず両親に今日は何をしたかというのをつぶさに報告した(デネロス先生が調合だけ教えてくれたのは、まあわたしのセンスというか才能というかそんなのもあったかもしれないけど、まず両親に対する気遣いだったんだろう。魔術だったらちょっと話は違ったかもしれないから)。両親への報告の中で頻繁に出てくるのがアベリオンの話だった。とても賢くそのくせみんなに姿を見せないデネロス先生の秘蔵っ子なるものにうちの親は二人とも強く関心を持った。そしてパリスにももちろんその話はしていた。わたしがとにかくアベリオンはすごいんだよ、という話を何度もするのでパリスはパリスでとても気になっていたらしい。ある日わたしがいつものように支度を済ませてデネロス先生の家へ向かおうとするとパリスに呼び止められ、これから行く先を伝えると、じゃあ俺も行く、と彼は言った。わたしは二つ返事で、じゃあ一緒に行こう!と答えた。
わたしが連れてきた突然のお客にアベリオンは心底驚いたようで、玄関先でわたしがデネロス先生にパリスの紹介をしているとき彼は挙動不審に家の奥とわたしの居る玄関の間で視線を往復させていて、ああ今隠れるか隠れまいかと考えているのかと気づいたときにはなんだかとてもおかしくなった。
「あのね、アベリオン。わたしこれから先生につきっきりで教えてもらうから、その間パリスと遊んでてよ!」
わたしはとってもとってもいい笑顔で言ったことだと思う。ついでにデネロス先生もとってもとってもいい笑顔で彼らを山羊の小屋がある方へ送り出した。その後しばらくしてわたしがなんとかすりこぎをすりつぶさず苔のみをすりつぶす力加減を会得したところで二人は帰ってきた。二人は思わずわたしが嫉妬してしまうぐらいに仲良しになっていて、わたしは、アベリオンが自分だけのアベリオンじゃなくなったことにちょっとだけ寂しさを覚え、そしてこれからは三人でもっと違う遊びができるようになるだろうことに大きな期待を膨らませた。なので、うん、わたしは、アベリオンの腕にある引っかかれたような跡やパリスの顔にある見覚えのあるような薄い火傷の跡は些細なことだと思って、今仲良く笑ってるならそれでいーかなーと見て見ぬふりをしたんだけど、デネロス先生は見過ごすはずもなかったね。パリスが増えて賑やかになったのはいいんだけど、アベリオンとパリスがお小言くらうのにわたしまで巻き添えにされるようになったのはちょっと誤算だった。ま、いいんだけどさ。
そんでもってある日のこと。先生は朝から診療に行っていておうちにはアベリオンしかいなかったんだ。アベリオンが山羊の世話をしおわったあと、いつもどおりにわたしたちは森の中で木登りや虫取りやその他諸々をして遊んでた。でも先生に教えてもらうはずだった分の時間があったからさ、それと同じ感覚だと時間が余っちゃったんだ。だからパリスは言った。
「ネルんちいこーぜ。別に俺んちでもいーけど」
遊び場を変えよう、という彼の提案にわたしはなんら反対することはなかった。そう問題は残りの一人だった。見れば、彼はどこか強張った顔でわたしたちをじっと見つめていた。
「……じゃあ、行ってこいよ」
言外に彼は、自分は行かない、という含みを持たせた。わたしはアベリオンがそんなことを言うことが悲しくて、寂しくて、でも何一つそんな思いを口に出せなかった。けれど、わたしの横の自称兄貴分はやはり格が違った。
「何言ってんだよ、お前もだよ」
パリスはぐい、とアベリオンの手を強引にひいて歩き出した。わたしはこの時ほどパリスがいたことに感謝したことはない。わたしとパリスの付き合いの中でパリスが一番輝いていた瞬間はいつだと聞かれたらこの時をわたしは挙げるだろう。わたしは素早くパリスの反対側に回ってアベリオン連行体勢を完璧にした。
「ね、一緒に行こう!」
わたしはいざとなったらちょっとだけ強く握ってつかまえるつもりだったが、アベリオンは思ったほど抵抗を見せず、やや重い足取りながらもわたしとパリスと手を繋いで最後には町の石畳を踏みしめた。彼は最初はとても緊張していてあたりをきょろきょろと見回し、わたしも思わず彼を奇異の目で見る人がいないかどうかちょっと気になってしまう。
「お前、初めて町くんのか?」
パリスが聞いた。アベリオンは何かを咎められたかのように肩をすくめる。
「初めてじゃない、けど……」
「あー、滅多に来ないんだよね」
わたしはさりげなくフォローを入れる。パリスはふーんと言ったきりまた黙々と歩き出す。途中わたしはお店の常連さんと通りすがったので笑顔で挨拶した。お友達?と聞かれたのではい!と元気よく答えて、ついでにアベリオンに「ほら、挨拶!」と肘でせっつくと彼は常よりだいぶ小さい声でこんにちは、と言った。やっぱ人見知りだよねあんた。常連さんはにこやかにこんにちは、と返してくれたのちにどこのおうちの子?などといくつか質問をして(アベリオンが特異な姿をしていることを差し引いても、小さな町で知らない子がいるのはそれなりに珍しいのだからこういうのは仕方ない)、それにアベリオンがぼそぼそと受け答えするやりとりを繰り返したあとで笑顔で別れた。
「ほら、大丈夫でしょ?」
わたしはにっこりとアベリオンに言ってやった。アベリオンはほんの少しほっとしたように笑ってくれた。
わたしの両親は噂のアベリオンくんが来てくれたことに驚きとそれ以上の喜びを全く隠しもしないで歓迎した。わたしは事前に、というか一番最初に彼が自分の白い肌と赤い目を気にしていることを包み隠さず言ってあったのでうちの親はそれに触れることなく、しかしやはり好奇心は抑えることなくアベリオンに接した。デネロス先生は優しくしてくれるかとか、普段どんな本を読んでいるのかとか、魔術はどんなものを使えるのかとか、その他色々。最初はやはり緊張していてお馴染みの一言返答で済ましていたアベリオンも夕飯を食べた頃にはだいぶ打ち解け、声量もいつも通りになっていた。帰り道でお父さんが「ネルをよろしく頼むよ」なんて冗談のように言って、アベリオンがやや面食らったあと「はい」と言ったときには私は吹き出してしまった。アベリオンが「はい」だって、「はい」! 大体よろしくしてあげてるのにはわたしの方なのにねー、とアベリオンを覗き込むと、じゃあこれから先宿題は全部一人でやれよとわたしにとってこれ以上ない切り札を出されてしまい、わたしは「ごめんなさいよろしく頼みます!」とすがりついた。アベリオンはやっぱりばーかと言って笑った。
考えれば先生に何も言うことなくアベリオンを連れ出してきてしまったのだと気づいたのはアベリオンの帰りついでにお父さんと一緒にデネロス先生の家に荷物を取りにもう一回やってきたときだった。デネロス先生はわたしたちが日が暮れても戻ってこず山羊の放牧場にもいないことでひどく心配したらしく今まさに杖を持って森の中へ捜索しにいかんとしていたところだった。わたしは先生にごめんなさいと謝り、お父さんが詳しい事情を説明してくれた。先生は驚きながらもお父さんの話を黙って聞き、あらかたわかったあとにアベリオンに向かって楽しかったか、と尋ねた。アベリオンは無言で頷き、先生は嬉しそうに眼を細めて愛弟子の頭を撫でた。なんだか羨ましくなったのでわたしもその場でついお父さんに抱きついてしまった。こうしてホルムの町に白い子が馴染んでいって、賢者の秘蔵っ子はあっという間にただの近所の悪ガキと化し(頭の良いバカほど手に負えないものはない)、段々とアベリオンが顔見知りや友だちを増やしていくごとにわたしは彼の人見知り姿が見られなくなっていってそれだけが残念に思えた。
そういえば、わたしとアベリオンの楽しき優しき麗しき弟子ライフの具体的な描写はまだだったかな? わたしは調合を教えてもらう約束だったので、まず最初はどんなお薬があるか教えてもらい、それから材料と器具を見せてもらい使い方を実演してもらい、採集のコツや場所も実地で仕込んでもらい、気づけばどんどん薬作りの道にのめり込んでいった。それはわたしの思う魔女の修行とはちょっと違ったけれどこれはこれで楽しかったので特に不満もなかった。わたしの物作り好きな性分とあいまってわたしは調合を楽しく教わっていたのだけれど、一方でわたしの親愛なる兄弟子はこっち方面はあまり得意ではなかった。夢中になって山を駆けカゴの中に草を放り込み、庵に戻ってから井戸の水でそれらを丹念に洗いすりつぶすことを繰り返して一つの薬が出来上がるのにわたしは言いようのない達成感を得るのだが、反対にアベリオンは採集の段階から既に面倒くさがっていたりした。それでも一緒に教わっていた最初は一日の長もあってアベリオンの方が出来ていたのだけれど、徐々にわたしが知識を得ていって、そして実技では実家仕込みの細かい手作業が得意なわたしにあっという間に追い抜かされたときに彼はプライドがぽっきりと折れてしまったらしく以降はまともにすり鉢に手を付けなくなった。デネロス先生がその態度を散々注意したけれどやる気が出ないものはどうしようもなかったので、以降は私一人が先生の薬の知識を受け継ぐこととなった。この点で言えば、わたしがいなければアベリオンももう少しやる気になって先生も愛弟子に全てを継がせることができたのかしらと申し訳なくならないこともなかったけれど、一方で、わたしがアベリオンに勝ることがあってしかもそれで先生を独り占めできるということに優越感を感じていたこともあったのでわたしは容赦なく手早く傷薬を作ってアベリオンに鼻高々と自慢してみせた。アベリオンが長い間傷薬の一つも作れなかったのは――正確には作ろうとしなかったのは――間違いなくわたしが原因なのだが、謝ったりはしない。何か一つくらいはあんたに勝ってないと、わたしだって拗ねちゃうよ。
魔術師の大事な働きの一つである調合を受け持つのがわたしであるなら、魔術師の本領である魔術を極めるのはアベリオンの役目だった。彼は薬をいじっている暇があるなら杖をもち、本を見ながら詠唱をした。そう彼はわたしと会った頃には既に呪文を唱えられた、つまり、古代の文字がある程度は読めたのだからそりゃあ現代の文字が読めないわけがないのだがそれに気づくまではしばらく時間がかかった。アベリオンはわたしがいない間に先生に色々教わっているらしいけれど、それだけでなく、わたしはアベリオンが自分から学んでいるという印象を強く受けた。先生が大切にしている本をアベリオンが勝手に持ってっちゃってて怒られるという場面にわたしは何回か遭遇した。それは言い換えればアベリオンが誰に言われることもなく自分から知識を貪欲に吸収しているということでもあった。またそうかと思えば彼はあるときは地面の蟻の巣を眺めあるときは木の上で葉の一枚をつぶさに観察し、それがどうしてそうなっているのか物事はどのように出来ているのかなどを語ってみせて頭の中の情報を整理しながら吐き出した。わたしは正直に言えばそういうときのアベリオンが何を言っているのかまったくわからなかったんだけど、彼が「すげーよな!」ときらきらした瞳で同意を求めてきたときには毎回黙って笑って頷いていた。よくわからなかったけれどもアベリオンのそんな顔を見るのは好きだったのだ。
小さい頃は、アベリオンは新しい魔法を覚えると必ずわたしに見せてくれた。最初出会い頭に小さい炎をわたしにお見舞いしてくれた彼だっただけれども、さすがにもうそんなことはしなくなった(喧嘩の際にそれをするとわたしが後から絶対に先生に告げ口するのを学習してからは、だけれど)。何もないところから炎があがり、風が吹き、水が湧き、氷が降って小さい雷が光る度にわたしは拍手喝采で彼を称え、アベリオンはもし満足顔大会があったらホルム地区で優勝できそうな顔で得意げにする。こんな素晴らしい友だちをもってわたしは文句など何一つ無かったけれど、でも、見ているだけで満足するわたしでもなかった。デネロス先生には魔術は教えないと言われてしまったけれどそんなことですごすご引き下がるようなら夢を持つ甲斐などないのだよスティーブ。そしてわたしはもしにこやか顔大会があったらネス全国大会に出場できそうなにこやかな笑顔でアベリオンをすごいと賞賛し、十分に上機嫌にさせたあとに「わたしもそれやってみたい!」と言えば、アベリオンは「しょーがねーなー」と満更でもない様子で彼の木の棒を貸してくれたのだった。ちょろいもんだよスティーブ。
アベリオンはわたしに文字を教えるのと同じかあるいはそれ以上の熱心さをもってわたしに魔法を教えてくれたけれども、一方でわたしは読み書き以上に、まったく、ちっとも、魔法ができなかった。大体まず先生やアベリオンが操る古代の言葉すらわたしには理解ができないのにいきなり呪文を唱えようとするところから間違っている気がしないでもないのだけど、幼いわたしは一生懸命にアベリオンのあとに続いて聞いたままを復唱しようと頑張った。意味がわかんないから難しい、とわたしが愚痴るとアベリオンは意味なんてわかってなくてもいいからとりあえず唱えりゃいいんだよと身も蓋もないことを言ってみせたので、魔法とはそんないい加減なものなのかと結構衝撃を受けた記憶もある。でもやっぱりわたしがところどころとちるのでアベリオンは家から持ってきた本を開いて「ここ読めよここ!」と該当するとおぼしき箇所を指し示したが、だからそんなの読めないんだって。しかしまあなんとか覚えたとおりに唱えてみせるところまではいっても、今度はその先から永遠に進めなかった。
「魔力を込めないで唱えたって周りが応えてくれるわけねーじゃん」
アベリオンは当たり前のように言い放ったが、わたしにとっては何ら当たり前のことではなかった。魔力ってなにさ、と問うと彼は自分を指さして言った。
「ほら、これ。お前も隠してないで出せよ」
いや、これと言われてもちっともわかんないんすけどアベリオン先生。わたし隠すも何もそんなの知らないんですけど。根源的な感覚の違いは幼子二人が言語化して説明し相手を納得させるには非常に難しいもので、意思疎通は困難を極めたけれど、どうやらアベリオンにはわたしにはわからない何か見えてるような感じてるようなものがあって、それが魔法を使うのに欠かせないものであることは理解した。が、わかったからといって出来るようには到底ならなかった。目に見えないものをどうやって操ればいいのか、アベリオン師匠に八つ当たり気味に聞いてみたら答えは「気合いだ!」と返ってきましたまったくもって単純でその上難解極まりない返答ありがとうございます。話は前後するけれどその頃はまだアベリオンがデネロス先生とわたし以外の人間にはろくに接していなかった時期なので、わたしのような人間が結構多いことをよく理解してなかったのもあるのだと思う。とにかく彼はわたしが出来ないのがおかしい、出来て当たり前だという論調でわたしに詰め寄ってちっともわたしを慰めたり励ましたりといったそういう優しさを発揮してくれなかったので、わたしもつい苛立ってしまって「アベリオンの教え方が悪いんだよ!」と全てを相手のせいにして怒って帰ってしまったこともある。けれど小さい橋を渡って家に辿り着くころにはそんな風に別れたことを後悔していて、夕ご飯のあとベッドの中で教えてもらった呪文を忘れないように復習し、翌日も森の中へ駆けていく――こんなことを繰り返した。その後うちにも遊びに来るようになったアベリオンは大半の世の中の人が魔力なんて気にもしないで生活していることを知るようになったけれども、わたしに対してのスパルタが改善されることはなく、わたしも懲りずに彼に教わることをやめなかった。それほどまでにわたしの魔法使いになりたい願望は強かったとも言えるし、アベリオンがそれだけ熱心にわたしに教えてくれたということでもあった。ねえアベリオン、あんたは絶対認めないだろうし、わたしも少し自惚れかなあなんて思ったりするけど、でもやっぱりさ、わたしはあんたの最初の友達で、だから特別だったんだよね? だから同じようにさ、わたしにとってもアベリオンは大切な友達だったから、魔法を使えるようになりたかったんだ。
そうしてデネロス先生から調合を教わりつつ先生に隠れて兄弟子に魔法を教わっていた日常の中のある日。いつものように町の小川に架かる橋を渡ろうとしていたとき、道の向こうから見慣れた人影が姿を現し足を止めた。遠目からでもわかる帽子に、ぼろぼろなのに持ち主と同じだけの時を経てきたかのような貫禄を持つマント、うす灰色の口ひげや目元の深い皺は老いた証であるはずなのに目の光や体の運び方は老人などではなく歴戦の勇士を思わせる人。
「ラバン爺!」
わたしが呼びかける前から彼の人はわたしに気づいていたらしく、両手を広げて抱きつくと脇の下に手を入れて抱き上げられた。ラバン爺の身体から香る草原の匂いがわたしは大好きだったので、目の前の首に抱きついて鼻孔一杯にラバン爺の匂いを吸い込む。
「久しぶり! いつ戻ってきたの?」
「今さっき、ってとこだな。元気だったか?」
「うん!」
ラバン爺はこのホルムにふらりとやってきてはしばらく逗留する旅人で、わたしが小さい頃からずっとそのサイクルは変わらない、まるで渡り鳥のような人だ(そういえば昔からずっと変わらないけど今何歳なんだろう?)。ホルムは小さな港町だから外からわざわざ何の目的もなく訪ねてくる人は珍しいので、小さいわたしは雑貨屋を訪れたお爺さんに興味津々で話しかけて以来、ラバン爺のもっとも幼い友人となったのだ。ラバン爺がホルムに何のために来ているのかよくわからないし、多分ただ単に遊びに来ているだけなんじゃないかとも思うのだが、とにかくこの人はホルムで何をするでもなくふらふらしていることが大半なので暇を持てあました子どものわたしを邪険にすることなくいつまでも付き合ってくれるところが好きだった。なのでそのときのわたしも、当然ラバン爺は暇なはずだと決めつけて素敵なお誘いをした。
「ラバン爺! ねえ、北の森で一緒に遊ぼう! 森の中に面白い友達がいるの!」
以前ラバン爺がホルムに滞在していたときはわたしはまだアベリオンを知らなかったので、ラバン爺も知らないはずだ。元々アベリオンと遊ぶつもりだったわたしは旧知の友に彼を紹介しようと思い立った。
「面白い友達?」
ラバン爺はわたしの思った通り暇だったらしい。肩をぽんぽんと2回叩くとすぐに地面に下ろしてもらえたので、わたしは橋の向こうを真っ直ぐ指差した。
「ウサギさんみたいで、全然そんなに可愛くない、わたしの友達!」
すっかり我が庭となった森の細道を、手を繋いでお喋りをしながらデネロス先生の家へとわたしたちは向かった。ラバン爺がいなかった間にあったことを思いつくまま徒然にわたしは話し、その中でデネロス先生に弟子入りして調合を教えてもらいはじめたこと、アベリオンという新しい友達ができたことも伝えた。小さな魔術師と老いた剣士の二人を同時に引き合わせていっぺんに友達自慢をしようとしたわたしの計画は結果から言ってしまえば見事に成功し、お互い挨拶を済ませた少し後にはもうアベリオンがラバン爺を後ろから羽交い締めにするくらいには仲良しになっていたので、嬉しくなってわたしも前からタックルして抱きついた。その後若干咳き込んで地面に座り込んだラバン爺をわたしたちは特に心配することもなく興味の対象はすぐに移り、今度は二人で木登り競争をすることにした。競争はどっちが勝ったのだったか忘れたけれど、それが終わった後でわたしたちは太い木の枝に並んで座った。
「そういえば見ろよネル、新しい魔法を覚えたんだ!」
アベリオンは腰からいつも提げている小さい焦点具を手に取るとわたしにはわからない言葉を囁きはじめた。やがてすぐに詠唱を終えると杖の先に小さな竜巻ができたのを見てわたしは歓喜する。アベリオンが得意げな顔をして腕を組むと、その様子を下から見ていたラバン爺も感嘆の溜息をひとつつき、目敏いアベリオンはますます調子に乗った。
「もっと見せてやるよ!」
アベリオンは枝を一つ一つ降りていって地面に足を付けるとラバン爺の目の前に立ってすぐにまた別の呪文を唱え、炎や水を次々と喚んでみせた。その小さな奇跡の一つ一つに感心するラバン爺の反応にますます気を良くした彼はあらかたの魔法を見せ終わったあとわたしに向き直って、呼んだ。
「ネル!」
呼ばれたからには行かなければなるまい。慣れた手つき足つきで枝の舞台から地に降りると彼は小杖をわたしに突きつけて言った。
「教えてやるよ!」
アベリオンは瞳を輝かせていたけれど、一方でわたしはちょっと躊躇ってしまった。本来は嫌なことではないはずだけども、出来なくて馬鹿にされるのが常のことだし、二人きりならもう慣れたものだけれどラバン爺の前でそうなるのはちょっと嫌だった。しかしアベリオンはそんなわたしの乙女心など知らぬことのように強引に杖を握らせて覚えたばかりという呪文をゆっくりと唱えてみせたので、わたしも仕方なしに耳から聞いた響きを精一杯真似て発音してみる。やっぱり違うと言われる。それを何度か繰り返してどうにか及第点をもらうと、今度は魔力を込めろと命じられる。だからそんなのどうやってやればいいのか、と聞くのも今更なのでとりあえず魔力とやらが出るように気合いを込めてみるけれども、腕に力は入れども風は応えることなく、毎度のことながらもわたしは肩を落としアベリオンは不満そうな顔をするのだった。
「だからぁ、力じゃなくって、」
アベリオンが更に口を出そうとしたとき、ラバン爺の渇いた手がわたしの頭にそっと置かれた。
「ま、そのへんにしておけ」
私の持つ杖の先をラバン爺が空いた片方の手で軽く握り、わたしはその手つきにつられて力を緩めた。皺の刻まれた手がゆっくりとわたしの指から杖を抜き取る様をアベリオンがただ静かに見守っていた。
老いた人は静かに口を開いた。耳に染み渡っていくような深い声だ。
「アベリオン、お前さんは、大した奴だよ。その年でそんだけ魔術を使える奴は俺もお前以外に知らない」
ラバン爺はいつもの茶化すような様子でもなく真剣な顔で、純粋にアベリオンを賞賛した。彼はそれにどう反応したらいいかわからないようで、照れたような困ったような顔でまごついていた。
「だから、お前は知るべきだな。全ての人間がお前のようにはなれないってことを」
そして続いた言葉に固まった。
「お前がどんだけ力を込めても、ネルのようには重いものを持てないのと同じように、ネルがどれだけ頑張ってもお前のようには出来ん」
ラバン爺の言ったことは、実はとっくのとうにわかっていたことだけれど、それでも心に棘が突き刺さったかのような痛みが走った。けれど、出来ないと言われてしまったわたしよりも傷付いたような顔をしたのが一人、目の前にいた。なんであんたがそんな顔してるのよ、アベリオン。
「…………でも」
逆説の言葉だけが響いたものの続きは口から発せられることはない。きっと頭の中で一生懸命反論の材料を探しているんだ、それでも見つからないんだ。
「……自分だけ特別だってのは憧れてみたりするもんだが、その実そう良いもんでもないよな。だけど世界と違うってのは世界に否定されることと同じじゃない。こんな可愛い友達がいるのがその証拠だろ」
「…………かわいくはない」
きっちりとそんなとこだけは否定してみせる彼が少し憎らしく思えるが、多分、そこぐらいしか違うと言えるところがなかったのかもしれない。わたしもみんなより力が強いことで熊女だとか言われたりして嫌な思いはしたことはいっぱいある。だからわたしはこんな力なんかなかったらなあとたまに考えたことはある。でもアベリオンは魔法を習うのにすごく熱心だし、わたしは魔法にとにかく憧れていたから、アベリオンが「良いもんでもない」を否認しなかったことが意外に見えた。
「駄目だぞ女は褒めないと、将来モテないぞ」
「うっせー!」
ラバン爺が年の功から来る含蓄を全く感じさせない助言をするとアベリオンがむきになって叫ぶ。まず無駄に偉そうで口が悪くて大体上から目線なところを治さないとモテるのも何もないと思う。でも本当は、そうやって彼は立っているのかな、なんて感じられたりもして。
「ま、お前はそのままでいいから、無理することもさせることもないってこった」
ラバン爺が穏やかにその手をわたしの頭からアベリオンの頭へと移動させると、彼は振り払うでもなく黙って撫でるがままにされていた。間接的に無理と言われたわたしは泣きたいような気持ちになったがやっぱり目の前の彼の方がよっぽど泣きそうな顔をしていたのでどうすることもできなかった。だからなんであんたの方がそんな顔をしてるの。
もしわたしが魔法の才能に溢れた神童だったら、あんたと同じように杖を振り回してはしゃげただろうか。アベリオンは、それを望んでいたのだろうか。
ラバン爺は手にある小杖を静かにアベリオンへ差し出した。彼は無言でそれを受け取った。
魔法使いになりたかったんだ。沢山のお話の中に出てきた素敵な魔法使いに。だけど、ねえ、わたしの大好きな御伽噺の女の子は友達もお母さんもいて、幸せそうに話は終わったけれど、助けられて森へ去っていったウサギさんはどうなったんだろうか? ウサギさんに友達はいたのかな、変なヤツっていじめられなかったのかな、女の子はウサギさんにお礼を言いに行かなかったのかな、なんてことが気になってしょうがない。ひょっとしたらウサギさんは女の子に罠から助けてもらったからだけじゃなくて、仲間が欲しくて魔法を教えてあげたんじゃないかなって最近考えるようになったんだ。わたしさ、どんだけあんたに教えてもらってもできなくて、あんたはそれに苛ついてわたしもそれで怒ったりよくしたね。だけど、あんたがあれ以来徐々にわたしの前で魔法を見せることが少なくなっていって、わたしから頼んでもそんなに前より熱心に教えてくれなくなって、わたしは、アベリオンに諦められちゃったのかな、って感じてすごく悔しくて寂しくなった。勿論色々あんたは考えてたんだろうけど、わたしはやっぱり魔法使いになりたくて、あんたみたいに自由に色んなものを操ってみたくて、あんたにできたよって言いたくて、寂しい顔はしてほしくなくて、アベリオン、君と一緒の世界を見たかったんだ。
「だからなんでそうなんだよおっかしーだろ!」
あれから時は過ぎ。あの頃は美少年と言えなくもなかったのになーと十年来の友人の顔をぼんやりと眺めながら回想に耽っていたのだけれど、目の前のヒートアップしつつある現状を見るとそろそろ止めに入った方が良いのかもしれない。
「おかしくねーよお前が馬鹿なんだろ! いいか、そもそも闇に属する術というのは喚んだり作ったりするものでなくてだな、むしろそこにあるものを払いのけるのが基本なんだよ」
「馬鹿はお前だ馬鹿、明らかにそっちの方が非効率的じゃねーか? そんなの気象や環境によって左右されるもんなんだし」
うーん、まだ大丈夫かな? 古そうな本を間においてテーブルで向かい合うように座っている二人はわたしには何が何だかわからない会話を繰り広げており、中身がいまいち理解できないうえに彼らの普段の口調がとても荒っぽいのも合わさって議論と口論の区別が難しいのだけれど、とりあえずは様子見を選択してみる。
先ほどから一生懸命わたしの兄弟子と論を交わしている彼はシーフォンと言って、このホルムで発見された遺跡を目当てにやってきた探索者の一人だ。探索者と言えばいかにもなゴツゴツした鎧を身に纏った剣士(メロさんはわかりやすすぎるよね)や、財宝目当てっぽいちょっと荒っぽい雰囲気の人たち(パリスは似た感じなのでたまにヨソ者にヨソ者と間違えられると憤慨していた)が頭に思い浮かぶけど、彼は見た感じわたしよりも年下っぽくて体格も良くない、というかむしろどっちかというとひょろひょろな感じだから異質と言えば異質だ(ただしガラの悪さはそんじょそこらのチンピラよりも上だと保証しよう)。そんな彼が他の探索者にひけを取ることなくやっていけているのはひとえに彼自身の持つ膨大な知識とそれを使役する力の存在が大きく、それはアベリオンと同じだとわたしでもわかった。デネロス先生とアベリオン以外の魔術師なんてほっとんど見たことなかったわたしはそりゃもう大いに好奇心に胸をときめかせ、アベリオンとの決闘の後に「大丈夫?」なんて心配しながら(フリじゃないよ! 本当に心配もしてたよ、一応!)お近づきになったわけだけど、多分わたし以上に好奇心が刺激されていたんだろうね、この人は。
「だからそれじゃ応用がきかねーだろって! 実戦レベルじゃねーよって話だ!」
アベリオンは多少ムキになったような顔をしてはいるが、滔々と何がそれだからあれがこれというような長話をしてみせる様子をわたしは久しく見ていなかったなあと改めて思う。でもこれはあの頃の、自分の中に詰め込まれた情報を整理するような話とはちょっと違って、むしろ反論に立ち向かうために即座に頭で構築した理論なんだろう。それはきっとわたしみたいにただうんうん頷いて聞いてるだけの相手には出てこない言葉だろう。アベリオンの言葉を理解した上で、自分の理論を押し出してくる相手じゃないと駄目なんだ。
「実戦レベルを考えるならまずは詠唱のコストを考えろよ! いいか、お前の足りない頭じゃ不可能かもしれねーが、実際には自分の頭でその場を判断して物質や光をどかす手続きを取った方が何倍も早いんだよボケが、可哀想なお前のためにわかりやすく例をあげていうならばな……」
しかしアベリオンがまだ喋ってる途中にシーフォン君がかぶせてきたのを見ると君らは相手の話を聞く気があるのかいと一瞬疑いたくもなるが、まあここでわたしが口を挟むと更に泥沼化しそうなのでやめておこう。シーフォン君は案外こういう説明なんかに慣れているようでさらさらと図を書き出して説明を始めたため、それならわたしにもちょっとはわかるかなあと淡い希望を持って覗いてみたりしたが肝心の図につけられた注釈が古代文字だったのを見てわたしはそんな望みを溜息と共に葬り去った。現代語でお頼みもうすよ、しーぽん。
似たもの同士だよな、とパリスは言った。それはわたしもそう思う。行動だとか思考パターンだとか、そりゃまあ赤の他人なんだから似てないところもいっぱいあるんだけど、アベリオンならこう来るかなと思ったことはそのままシーフォン君にも適用できることが多い。けれど正確には似ているという表現を用いるより、彼らは同レベルなのだと結論づけた方が相応しい、と思う。行動も思考パターンも、知識も技術も、生きる世界も。
「…………いいなあ」
わたしが幼い頃から焦がれても焦がれても届かなかったところに彼らはいるのだ。そのことがただ単純に、羨ましい。
「あぁ?」
わたしの独り言のような呟きに反応してくれたのはアベリオンだった。何事であれ無視されないというのは嬉しいことだろうけど、若干議論の熱を引きずって剣呑な顔をした二人に見つめられるのはあまりいい気持ちでもなく、下手したら自分に矛先が向いてしまいそうな状況をさてどうしようかと思案する。
「や、その。ただね、二人が――」
喧嘩のようなディスカッションで、苛つきながら討論を重ねて、罵倒しながら同じ次元で魔術を語り合う。それは多分、わたしの夢そのものではないけれどとても近いもので、やろうとしてもできないことで、だから。
「――仲が良いなあって」
本音と羨みと嫉妬と、ちょっとした祝福の気持ちを込めてみる。
「はあ!?」
訳が分からないというように語尾のイントネーションを捻りあげた二人を見てやっぱり同レベルだと確信する。君らは本当に元気だね。アベリオンがこんなに喋ってこんなに活き活きしてる姿わたしは久しく見たことないかもしれないよ。シーフォン君についてはわたしは良く知らないけど、でもなんとなく見てると楽しそうだなって思うよ。きっと君らが二人一緒にいるときは、笑ったり怒ったりするだろうけど、つまらなさそうな顔だけはしないだろうなって思うんだよ。
「ま、これでネルお姉さんもちょっと一安心ってとこかな」
今でも魔法使いになりたいとは思っている。目の前の二人を見ると尚更、自分との格差を思い知ると同時に、やっぱりわたしも!という気持ちが強くなる。魔女になりたいなという気持ちの中にも色々あって、純粋な魔法への憧れとか、友達と一緒のものを共有したいという欲求とか、そしてそれと同時に友達の仲間になってあげたいという想いがあった。まだまだ魔法への憧れは潰えていないし、アベリオンとシーフォン君の話についていけないのは寂しいけど、3つ目に関しては、わたしでなくてもいいかなと最近うっすら感じている。
「なんだそれ、意味わかんねえ」
アベリオンが不可解そうに目を眇めるけどもそんなのお構いなしだ。
「というわけでシーフォン君、馬鹿で口悪くてどうしようもないとこもあるけど、根は悪い奴じゃないから、コレよろしくね」
『コレ』を指差しながら笑うと思った通り、「よろしくじゃねえよっていうかコレ扱いかよおい!」なんて文句が飛んでくる一方、反対側からは「は?キメぇ」なんて言われちゃったりして、全くあんたらは少しぐらいか弱い女の子に対する扱いを覚えておきなさいよ。でもそれくらいじゃネルお姉さんはへこたれないので、更ににっこりと笑ってあげると変な物でも見るような目で引かれた。本当にひどいな、もう!
近頃はこの二人と一緒に遺跡に潜る日々が続いている。遺跡の中は夜種がいっぱいで一匹ずつなんてとても相手にしてられないからそういうときは魔法がとても助かる。宮殿では昔の人が書いたものをこの二人が全部読んでくれるのも色々と楽だった(読まなきゃ良かった、なんて思ったりすることもあったけどさ)。けれど彼らはちょっとだけ体力がなくてちょっとだけ力不足だったりするので、そこでちょっとだけ力持ちのわたしが石をどかして道を開けてあげたりして、ついでに開かないドアはこじあけたりもして(うっかり罠にかかると二人が死にかけるので最近パリスに鍵開けを教えてもらった)、二人には出来ないことでわたしはパーティーに貢献している。魔女というわたしの夢とは程遠い現在だけど、もしわたしが非力な魔女で岩にささったツルハシすら引っこ抜けない子だったらこう上手く行ってなかっただろうから、これはこれでいいのかな、と最近はなんとなく思っている。輝く夢を見るのもいいけど、自分に出来ることでささやかに周りの人の手助けをするのも悪くはない。まあ仮にわたしが少しぐらい魔法を使えるようになったとしてもそれだけで食べていける気なんてさらさらしないし、目の前の二人に及びそうもないし、現実問題無いものをねだるよりは今自分が持つものを活かした方が良いのではないか、と思うわけだ。ガリオーさんに褒めてもらったのはちょこっと嬉しかったんだよね。物を作るの、嫌いじゃないし。
アベリオンに新しい友達が出来たとき、わたしはいつもちょっとだけ寂しくなり、そしてとても嬉しくなる。今度の友達は魔法まで使えちゃったりしていつもより寂しさ倍増だけど、その分嬉しさも倍増だ。トータルで言えば断然プラスだ。魔法友達になることはかなわなかったけど、魔法友達二人目をゲット出来たと思えばわたしにとってもなかなか悪くないことだ。魔法使いに囲まれながら、わたしはわたしなりにやっていければ、それは全く素晴らしいことだ。
森で出会ったウサギさんは、ついに女の子に魔法を授けてはくれませんでした。けれど、その代わり女の子はずっとずっとウサギさんの友達で、女の子の友達やウサギさんの友達も巻き込んでいっぱいいっぱい楽しく遊びました。古今東西に散らばる無数の御伽噺の中に、一つくらいそんなお話があってもいいと思わないかい?
「よし、じゃ、そろそろ行こうか!」
わたしはわたしの大好きな魔法使いたちにはじけるように笑いかけた。
了
初めてデネロス先生と会った日がいつだったかなんて覚えていないくらい昔からわたしは先生を知っていた。お母さんとお父さんが親しみと素朴な敬愛の情を込めて使う「先生」という呼び名をわたしも真似して呼びかければ先生は穏やかに笑んでわたしの頭を撫でてくれた。薬草師である先生は雑貨屋であるわたしの親の店に商品となる薬を卸してくれる人であり、先生が薬の瓶のいっぱい入った鞄を重そうに抱えながら道を歩いてくるのを見つけるとわたしは一目散に駆けていき、運ぶのを子どもなりに精一杯お手伝いした。ありがとう、と優しい声でお礼を言われるのが好きだった。
わたしは先生がうちに来る日が楽しみで仕方なかった。それはただ単純に大人の人と喋るのが楽しいという子ども特有の思考もあったかもしれないけれど、先生は他の人にはないわたしを惹きつけるものを持っていた。
「先生、今日もお話して!」
簡素な木で出来た椅子に腰掛けて体を休めている先生に向かって、遠慮という言葉を知らない子どものわたしは己の欲求を恥じることもなくぶつけたのだけれど、先生はそれを子どもの可愛いおねだりと受け止めたのであろう。わたしが服の汚れるのも構わず地面に座るのを合図にして先生は少し勿体ぶって口を開く。
「――今日は、何の話がいいかの」
「なんでもいいよ!」
先生の話は何だって面白いのだ。デネロス先生はわたしのお父さんも知らないような遠い昔の遠い国のお話を沢山知っている。わたしのおばあちゃんのそのまたおばあちゃんの、更にそのおばあちゃんが生まれた頃よりもはるかな昔から口伝えで受け継がれてきた物語が今まさに次代の者へと語り継がれんとする、人の営みの一部に確かにわたしは位置づけられていた。
「では今日は、英雄の話をしようか。といっても今日の主役は英雄その人ではない――英雄を支えた仲間の一人、魔法使いのお話だ」
魔法使い!私はその言葉を聞いて目を輝かせ、身を乗り出した。東からやってきた悪い魔王を倒した王子と英雄のお話が嫌いな子はいないけど、わたしはそれに加えて更に魔法使いが出てくるのが輪をかけて好きだった。英雄の冒険譚だけじゃない、あるいは領主様の無茶な難題に応じてみせる賢者、あるいは勇敢な若者に力を授ける魔女、あるいは魔物退治のため地下の洞窟を探検する勇者、そのどれもがわたしの心をとらえてはなさない。そしてわたしがすっかり魔法使いに夢中になった頃、先生が一つのお話をしてくれた。
ある日、小さな女の子が、森で罠にかかっていた白いウサギさんを助けたらお礼にウサギさんが女の子に魔法の力をくれた。女の子はそれで花が枯れて悲しんでいた友達のために野原の花を一斉に咲かせ、体を壊したお母さんを治してあげて、干ばつに苦しんでいた村のために雨を降らせて彼女は一躍村の人気者となった。たったそれだけの、魔法使いが八面六臂の活躍をする冒険譚に比べたら平凡なお話だ。
けれどわたしはその女の子にこれ以上ない憧れを抱いたのだ。わたしはそれまで魔法使いという人は生まれながらにして魔法使いで、獣が人にはなれないのと同じように普通の人間が魔法使いになることはできないのだと思っていた。だけれどもこのお話の中の女の子は元々普通の子だったのがウサギさんの力で魔女になることができた。
だったらわたしも!となるのは至って当然の流れだと思わないかい?
「わたしも魔女になる!」
という幼い少女の決意の声に、デネロス先生はただ黙って静かに頷いたのだった。
で、魔法使いになろう!と志した幼少期のわたしは、しかしどうすればいいのかわからなかった。店の掃除に毎朝使うホウキを股に挟んで階段から飛び降りてみたはいいけれど飛べるはずもなく、結局膝を擦りむいてお母さんに怒られるだけで終わった。店の裏においてあったツルハシをステッキ代わりにぶんぶん振り回してそれっぽい呪文を唱えてはみたけれどやっぱり何の効果もなく、売り物に触るなとまたお母さんに怒られて終わった。他にも色々試してみた結果わたしが学んだことは、どうも魔法はわたしの独学では身につかないものらしい、ということだった。
ならばウサギさんだ、とわたしは手を叩いた。自分で魔法使いになるのが無理ならば誰かにしてもらえばいいのだ。しかしその頃にはウサギさんが魔法を教えてくれやしないことぐらいは分かる程度には分別がつく年頃だったので(ウサギさんがたまに首を掻き切ることは知っていた、何故か)、周りに誰か教えてくれる人がいないかどうか探し始めた。わたしの両親自身はそんな力があったらとっくに重労働である毎朝の商品の仕入れで使っていてもおかしくないはずで、平凡かそうでないかといったらまず間違いなく平凡の方に属しているのは子どもの目から見ても明らかだった。じゃあホルムの住人の中に魔法使いはいないだろうか、と町の中で聞き込み調査を開始したのを切っ掛けにわたしの行動範囲は広がっていった。ああこの頃だったかな、パリスと遊ぶようになったのは。いやでもそれより前だったかもしれないし後だったかもしれないし、あれ、どうだったかな……まあいいや、パリスだし。とにかくわたしは事ある毎に「魔法を使える人を知りませんか」と大人の人に聞いていた気がする。それで返ってくる答えは大体決まっていて、「奇跡の業なら神殿の人たちが使えるじゃないか」というもの。確かに神官や巫女が使う治療の魔術は魔法の一種なのだけれども、わたしが憧れる冒険譚の中の魔法使いとは種類が違うことは子どもながらにも分かっていた。今から考えれば彼ら大人は不思議な力に憧れる少女と不思議な力を外法として断ずることもある神殿両方に気を遣っていたのだろうけれど、幼い私がそんなことに気付けるわけもなく、ホルムにはお話の中みたいな魔法使いの影が見当たらないことをとても残念に感じていた。
そんなある日のこと。うちのお母さんが店の売り物を落っことして怪我をした。私はすぐにお父さんを呼んで、お父さんは急いでお医者様を呼びに行った。その間お母さんを頼むと言われて、でも私は苦しそうなお母さんを見てるだけで冷静では居られなくて、横のパリスも右往左往してて――ああこのときにはパリスはいた――、子ども二人がおろおろしているのを母が痛みをこらえながらなだめているところに、お医者様は来た。けど、それは私が知っている白い服を来た神殿の人ではなかった。
「まあまあ、落ち着きなさい」
慣れ親しんだ優しい声でその人は私たちをあやし、そしてお母さんの真っ赤に腫れた足に手を触れた。彼こそはわたしのよく知る、デネロス先生だった。ふむ、と短く頷いたあと先生は布にくるまれた長い棒状のものを取り出した。皺が深く刻み込まれた手でゆっくりと麻布がはぎとられると、中からは一本の杖が現れた。お爺さんの杖といったら普通は歩くためのものだろうけど、わたしは一目でそうではないと感じとった。第一それが布にくるまっていたことからもわかるように先生は歩くためにそれを使ってはいなかったし、それに、装飾に使われているきらきらとした石が、杖自身が特別であることを主張していた。
「……――………――――」
先生はわたしにはわからない言葉で何事かを囁きはじめた。多分今のわたしでも聞き取れないであろうそれは、神官の使うものとは微妙に違うが、同じように人体の痛みを緩和する効果のある奇跡の業だった。お母さんの額をつたっていた汗がひき眉間の皺が和らぎ、わたしはお母さんが大丈夫になったんだとわかった。デネロス先生は持ってきた鞄をあさり、うちでも取り扱っている独特の匂いのする瓶を一つ手に取り、中身をすくってお母さんの足に塗った。
「二、三日はこれを塗っておきなさい。今は痛みを止めたが、半日したらぶり返す。無理に動こうとせず、しばらくは休んでおきなさい」
穏やかな口調で先生は言った。しかしわたしはもはやそんなことはどうでもよくて、先生と先生の持つ杖をじっと、じーっと見つめていた。わたしの視線に気づいたお爺さんは少し困ったように微笑み、そして、杖を持ちながらまたわたしにはわからない言葉を呟いた。すると鞄の中から何やらの袋が2つ勝手に浮き上がり、わたしとパリスの手に落ちた。中身は美味しそうな焼き菓子で、それでも食べておきなさい、と先生は優しい笑みを浮かべた。
実はあのときちょっと調子にのってたでしょ、デネロス先生?
わたしはデネロス先生が魔法を使えるということをそのとき初めて知った。うちからは基本的に先生の家より神殿の方がやや近いので何かあったら神殿を頼ることが多かったのだけれど、そのときはたまたま近くにデネロス先生がいたから駆けつけてきてくれたそうだ。わたしは非常に、おおいに、興奮した。神殿の人はむやみやたらに力をひけらかすことは絶対にしないし、デネロス先生もそうだけれど、先生はまるでお話の中の賢者みたいに困った人を助けてくれる。わたしはデネロス先生がいいと思った。わたしがなりたいのはデネロス先生みたいな人なのだ。口を重くした両親にこれでもかというくらい質問攻めをして、デネロス先生が北西の町はずれの森の中に暮らしているということだけをどうにか聞き出すと、翌日には私の足はそこに向かっていた。
わたしが己の庭としていたところは主に町の中心部の広場やそこから繋がる街路のあたりで、例えばパリスの家の裏道からどこをどうすり抜けていけば港に一番早く着けるかなどということは知っていたのだけれど、反面北の森、しかも西側の方にはとんと縁がなかった。森で遊んだことがなかったわけじゃないけれど、自分や一緒に遊ぶ子が把握している範囲でしか行動したことはない。要するに、勝手の分からない森の中を進むのはそれが初めてだった。わたしは森というのをなめていた。人が通るための細道があったから、それを頼りに進んでいけばいつかデネロス先生のおうちに着けるだろうと半ば楽観的に考えていたのだが、途中の分かれ道でわたしは深く考えずに左に進み、先に行くほど段々と道が細くなっていき、むき出しの斜面の上を通るようになり、ついには途切れてしまった。間違った、こちらはもう使われていない道だ――と踵を返して引き返そうとした瞬間、地面の石が、あざ笑うかのように私の足を取り、私はおよそ3メートルはあろうかという急斜面を転がり落ちた。
そりゃ痛かったさ。幸い長袖長スカートだったからそこここに散らばった木々の枝による被害は少なく済んだものの、ところどころ打ったし、手はすりむいたし、もう斜面の上には戻れそうにないし、わたしは状況を把握したあとぐっと涙ぐんだ。けれどいくら泣いても誰も助けには来てくれないということを思うと変に冷静になって、私は結局大泣きすることはなく静かに立ち上がり、とにかく戻ろうと決意して歩き始めた。自分が来た道には戻れないが、方向さえ合っていればどうにかなるだろうと、やはりわたしはまだ楽天的だった。
どれくらい歩いたかは覚えていない。子どもにとっては延々と長い時間のように思えたけれど、それは今から思えば道がわからない不安な状況だったから長く感じられただけで、実際は十分も経っていなかったかもしれない。けれどとにかくその時点では主観的な時間がわたしにとって絶対で、わたしはこのまま迷子になって誰にも見つけてもらえずここで死んじゃったらどうしよう、などという悲観的な妄想をようやく頭の隅で考えはじめ、不安はさらに加速した。来た道とはどうも違うところに来てしまったようで、それも更に焦燥を駆り立てた。
お母さんごめんなさい、とわけもわからぬ謝罪が口をつきかけたところで、木々の向こうに広がる草っ原を見つけた。わたしは転ばぬように、しかし急いで真っ直ぐにそっちへ向かった。森を抜けるとそこは若々しい草が生えていて、それを山羊が一生懸命に食んでいた。放牧用と思われるそこは山羊が逃げ出さないようにちゃんと柵があって、ここには人が来る、とわかった。とにかく助かった喜びでわたしは胸がいっぱいになり、とりあえずここはこの嬉しさを山羊に報告しようとしてのんきな顔をしている一匹の老いた山羊にわたしは突進していった。
そこで、わたしは山羊のむこうに人がいることに気づいた。柵と同じくらいの背丈しかない子どもだ。ほとんど同じぐらいに彼もこちらを見つけたらしい。わたしと彼は目が合い、ちょっとだけそうして見つめ合ったあと、わたしは予定を変更して一目散に少年の方へ駆けていった。彼は呆然と立ちつくしたままわたしの来るのをそこで待っていた。
「こんにちは!」
知らない人にはまず挨拶だ。わたしは商売人の家仕込みの爽やかな笑顔を彼に向けた。一方で目の前の子どもはますます動揺したようで、わたしを食い入るように見つめているけれどもお返事はしてくれなかった。
ウサギさんだ、と思った。いや、もちろん相手は人間なんだけれど、わたしは彼を見てウサギさんみたいだと感じたのだ。服こそ簡素な木綿でどことなく茶色ばんでいたけれど、そこからのぞく手と私と同じくらいの位置にある顔はこれ以上なく真っ白だった。こんなに透き通るような肌をしている人は女の人でもわたしは見たことがなかった。その上彼は髪まで真っ白で、子どもはみんな髪が細いけれども特にこの子は細くて、短く切ってはあるけどいかにもさらさらそうで撫でたら気持ちいいだろうなあとわたしは思った。そして何より特徴的なのが真っ白な中で異彩を放つ真っ赤な目だった。どんなに綺麗なルビーもこの瞳より輝くことは出来ないと思う。そう真っ白な毛に真っ赤な目といったら白いウサギさんだ。わたしはそんな彼が珍しくてついついじっと見つめてしまう。彼はそれに居心地悪そうにしつつも、黙っているのは更に具合が悪いと思ったのか、小さく口を開いた。
「………ちわ」
こんに、はどこへ行ったのだろうと思いつつ、わたしは彼が挨拶を返してくれたことに満足する。ウサギさんみたいな彼と意思疎通できたことが嬉しくてわたしはにっこりと笑みを浮かべると彼は更に戸惑ったようだった。
「…………だれ」
短い疑問詞のみの言葉だったが、それだけでも意味は通じた。わたしは自分の名前を即答する。
「わたし?わたしはネル!あんたは?」
いい加減『彼』とまどろっこしい呼び方をするのも飽きた。わたしは彼に自己紹介を促す。
「……………………アベリオン」
たっぷりの沈黙のあと、これ以上ない端的な答えがわたしの耳に届いた。ねえ、今から思えばあれさあ、人見知りしてたのかな? アベリオン!
「アベリオン? ふーん」
わたしは彼の名を繰り返し、頭の中で自分の知ってる名をさらう。こんな色した子ども見たら絶対忘れないから直接会ったことはないはずだが、人づてに聞いたこともなかった。噂にもなっていないということは、少なくともわたしの友だちの中でこの子を知っている子はいなそうだ。だってわたしだったら間違いなく言う。みんなに言う。帰ったらパリスに言う。
「ねえ、ここで何してるの?」
わたしの興味はすっかり目の前のアベリオンに向いていた。森の中を涙ぐみながらさまよい、ようやく脱出できたと思ったらこんな神秘的な子を見つけたのだ。わたしの興奮がそこに向かわないほうがおかしい。
「……山羊の世話」
返事の前の沈黙が短くなってきて、わたしはそれをいい兆候だととらえる。古今東西老若を問わず、女の子はお喋りが大好きだ。わたしは彼ともっともっとお話してみたいと思い、口を動かす。
「へえ! 一人でやってるの?」
「……うん」
「世話って? あ、草食べさせてるのか! すごいね、ねえねえ山羊さんは何匹いるの? 触っていい?」
「え、あ、さわんな、そいつ逃げる」
「あ、そう? ごめん」
ぶすっとしていた彼が少し焦ったように、山羊に寄ろうとしたわたしに手を伸ばす。白い手が本当に綺麗だなあ、と思ったことをよく覚えている。
「ね、アベリオンだったら逃げない?」
「あー、うん」
「じゃあアベリオンが撫でてよ!わたしは後ろから見てるから」
「………なんで」
「いいからいいから!」
ぐいぐいっと彼の背中を押すと面白いように彼はつんのめり、押すな痛い、と文句がつけられた。そんなに強くした覚えもないのだが、とりあえずわたしはそこで手を彼の背中にそっと当てて背後から山羊をのぞき見る。ついでにアベリオンのほっぺたも見る。おお、白くてふにふにしててなんか美味しそうだ。
「……………」
彼は憮然としながらも山羊に近寄り、首筋に手をあてゆっくりと撫で下ろす。山羊は気持ちよさそうにしていた。わたしはアベリオンの手と山羊の毛どっちが白いだろうかと見比べていた。彼はそうしてしばらく撫でたあと、首輪に縄を無言で通し、その縄の先を柵に結んだ。どうやら放牧は終わりらしい。私から見える限りあと一匹のんびりと柵の中を歩いている山羊さんがいたが、アベリオンはすたすたとそっちへ歩いていった。
「もう終わりなの?」
「うん」
なんとか彼に二行以上の返事をさせてみたいものだが、子どものわたしにはなかなかそのような答えを引き出す質問を考えるのは難しかった。なので思いつくまま気の向くままに私はお喋りを続行する。
「ね、アベリオンのおうちはこの近くなの?」
再び思い返せば、自分でそんなこと言った辺りで気づいても良さそうだったのだけれど、その時点で既に自分が山の中で遭難しかかっていたことも忘れ去ってしまっていた鳥頭にはそれは過ぎた要求で、デネロス先生のことなどすっかり頭から抜け落ちていたわたしは彼と先生の繋がりなんてまったくこれっぽっちも思い浮かべなかった。
「……うん」
「へー、じゃあさ、おうちの人もアベリオンみたいに真っ白なの?」
わたしはそれなら会ってみたいと思った。アベリオンも綺麗だけど、こんな真っ白なお母さんがいたらきっともっと綺麗だろうと思った。お父さんは、どうだろう、ちょっと綺麗すぎて怖いかなあとわたしは勝手に彼の家族を思い浮かべた。
アベリオンは、眉をわずかに動かして答えた。
「………ちがう」
「……へー」
そうか違うのか残念。でもそしたらなんでだろう。子どもは時に残酷に、はばかることなく思ったままの疑問を口に出す。
「じゃあアベリオンだけ真っ白なの? どうして?」
アベリオンは眉間に明確に深い皺を寄せた。
「…………しらねー」
そうか知らないのか。わたしはますます彼を不思議に思い、思ったらとりあえず行動してみるのがわたしの今も変わらぬ信条だ。わたしは彼の手をぱっと取り自分のものと見比べた。アベリオンはあからさまにうろたえたようだったけれどそんなことよりわたしは小さな二つの手を注視するのに忙しかった。色の白い人、というのは身の回りにも何人かいたけれどもアベリオンのそれは次元が違うように思えた。まるではじめから色なんてないようだ。わたしはアベリオンの手を上に持ち上げて元気な太陽の方に向けた。日差しを一身に受け止めてはじき返すその白は真っ白な雪原を思わせたけれど、私と同じくらいの大きさの手はちゃんと同じくらいあたたかかった。
「なんだよ、離せよ!」
アベリオンが抗議してようやくわたしは彼の手を離した。その目は不審に染まっていたけれど、わたしは構わず思ったとおりにまくし立てた。
「ねえあんた、本当に真っ白だね。あ、でも目は白くないよね、真っ赤だもんね。本当にウサギさんみたい!」
誓って言うけれども、わたしは侮蔑だとか嘲りだとかそんな意味を込めて発言したわけではない。むしろわたしの心は感激だとか驚嘆だとかそういったものが占めていたわけだけれど、うんまあ、何も考えずに言っちゃったのは事実だよ。
「…………ざけんな」
アベリオンが、子どもらしい高い声の中では最も低いと思われる声で、呟いた。わたしはそのときようやく目の前の少年の機嫌が急下降していることに気づいた。いやだって最初から愛想なかったからわかりづらかったんだよ。
「ウサギなんかじゃねーよ! 俺はちゃんと人間だよ!」
いきなり怒鳴られてわたしは唖然としてしまった。どうやら自分は彼を怒らせるようなことを言ってしまったらしいということには何とか気づいたが、それが具体的になんであるかまでは思い至らないくらいには、子どもだった。
「え、うん、そりゃそうだけど、え、でも、ウサギさんみたいだなって」
わたしにとってのウサギさんというのは決して悪い象徴ではない。むしろ可愛らしくて、ふわふわで、綺麗で、そのうえあの女の子には魔法を授けてくれたりまでした、良いものの代表だったのだ。だからわたしは褒め言葉のつもりでウサギさんの五文字を繰り返した。それが更に相手の激昂を買うともしらずに。
「……っ、違うって言ってんだろ! バカ女!」
彼は山羊を連れて半ば走るようにしてわたしから去ろうとした。去り際に罵られたものの何が何だかわからなかったわたしはそれに対する怒りは湧いてこず、むしろわたしは焦り慌てて彼を追いその腕をひっつかんだ。ここで置いていかれたらまたわたしは森の中であてもなくさまよう運命に落ちていかざるをえないのでわたしは必死だった。
「え、ごめん! ごめんって! ちょっと待ってよ!」
「っだよ、いてーよ、離せよ!」
とりあえず謝ってみるけれども特に効果はないのはわたしが力のセーブを忘れて思いっきりアベリオンの腕を握っていたからだろう。アベリオンは痛い離せと言うが、わたしはわたしで離すわけにはいかない。自慢ではないが近所の子どもたちの中では腕相撲ランキング不動の1位に君臨していたわたしだ、それなりに自分の力のことはわかっていたので、とにかくつかまえてからどうにかしようと考えていた。予想通りアベリオンは自身を縛る私の右手の手首を握り返して離させようとしたけれども、そんなことじゃ今更わたしの手はびくともしなかった。相手が落ち着いてくれるまでこのままでいて、諦めたら謝って機嫌を直してもらって、それから彼の家に連れて行ってもらおう。わたしの頭の中にはそのような算段があった。
アベリオンは粘ることなくすぐに諦めた。わたしの手首から手を離したので、これで話を聞いてもらえるかな、と少しほっとした。けれど彼の目は剣呑なままでわたしをじっと睨んでいて、うう、これは骨が折れそうだ、と胸裏で泣き言をもらしたときに、気づいた。
彼が腰に差している、わたしが今まで放牧の山羊追い用だと思っていた木の棒は、よく見たらそんなほのぼのした用途には不似合いな輝く石が何個か埋め込まれていた。わたしはこれとよく似たものをどこかで見たことがある。アベリオンがそれを手に取ったときわたしは記憶をさらい、母が怪我をしたあの日を脳裏に浮かべたその瞬間、彼は口を開いた。
「――……―――…―」
何を言っているのかはわからないけど、何がしたいのかだけはわかった。不思議な響きの囁きが終わった途端、アベリオンをつかまえるわたしの右手に重なるようにして光が出現した。光はすぐにわたしのよく知る形、炎に変化し、わたしの手を炙る。
「うわっ!」
わたしはすぐに手を離した。一瞬だけれども確かにかまどに手を置いたような痛みがわたしの手を襲う。けれどすぐに炎は勢いをなくし、空気に溶けるように消えていった。こんな炎、普通じゃまずありえない。普通はこんな都合良く現れて都合良く消えない。わたしは目の前の少年の顔をばっと見る。
彼はいたって平然とした顔をしていた。驚いている様子もない。間違いない、これは、彼が使った、魔法だ!
「さわんな」
アベリオンは短い拒絶の言葉を述べて、それで十分だろうと確信したようにゆっくりとこちらに背を向け歩き出した。わたしはしばしその背を見つめて呆然とする。
森の中で出会ったウサギさんが、魔法を使ったのだ。そのときのわたしの興奮はいかばかりだったか、お察しいただきたい。
「……まってー!!」
逃がすものかといわんばかりの気合いをこめてわたしは後ろからタックルをかまし、アベリオンの背中に突撃した。ごふっという低い呻きとごきっという嫌な音が聞こえた気もしたがそんなことはどうでもいい。わたしはアベリオンを背中から抱え込むようにして両手をまわし腰に差した木の棒ごとがっちりとホールドする。結果的にその体勢はアベリオンが焦点具を引き出せない形になったので知らないでやったこととはいえ過去のわたしはナイス判断だったと言わざるを得ない。
「いっ、てめっなん」
「ねえねえ今の魔法でしょ!? 魔法だよね!? すごいすごいすごい!! どうやって使ったの、誰に習ったの、ねえわたしにも教えてウサギさん!!」
腕の中で懸命にもがくアベリオンにむかって無我夢中で感動と感激をまくしたてた。御伽噺の中の話が、少し違う形――罠にかかってもいなかったし、多分助けてもらったのはこっちだし、ウサギさんみたいな人間だったけれども――で我が身にも実現するかもしれないと思ったのだ。こんなチャンスは今後絶対にないとわたしは思っていて、だからこそ腕の中の力もぎゅうぎゅうに込めた。
「だからウサギじゃねえって、って、いてえ! 離せバカ! 馬鹿力!」
「離したら魔法教えてくれる!?」
「やだ! なんで俺が!」
「教えてよー!」
「いででででで離せえええ!」
しばらくその取っ組み合い――というには、わりあい一方的でもあったのだけれど――が続き、わたしは少年の子ども特有の細い腰をがっちりと掴んで固定して離さず後ろから魔法を教えてと頼み込んだのだけれど、多分意地になったのであろうアベリオンは頑としてそれに是と言わず、事態は膠着状態に陥りその様子を山羊だけがどこか呆れたように見ていた。ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てるわたしたちの声は森の中にも響いたのだろう。だから、あの人が様子を見に来たのだ。
「……アベリオン?」
「………あ」
「……先生!」
わたしが来た方向と反対方向に延びていた細い道から、見たことのあるお爺さんが姿を現した。わたしはようやくそこで自分がここに来た本来の目的を思い出し、アベリオンをつかまえる腕をぱっと離して先生に向かって頭を下げた。
「こんにちは、先生!」
これから教えを請おうとする人物には礼儀を正しくしなければいけないと、文字を教えてくれる神殿の先生に私は教わった。アベリオンはわたしから解放されたとたんうずくまり腰をさする。そんなに痛くはしてなかったと思うんだけどなあ。
「ああ、こんにちは」
デネロス先生は一応の挨拶を返したところでわたしとアベリオンを交互に見比べた。どうやらどういう状況かいまいち掴めていないらしい。それはわたしも先生の顔を見て判断出来たが、困ったことにわたしもいまいち今の状況がわかっておらず、先生と一緒になって首を傾げた。
「帰ってくるのが遅いから、見に来たんだが……」
だが、どうしたのだねこれは。はい、それは、えーと、魔法を習おうとして、森に入ったら迷って、道に迷ったら山羊さんがいて、ウサギさんみたいな人間もいて、ウサギさんが魔法使って、えーっと、駄目だわたしもよくわかってない。けどとりあえず黙っているのもなんだと思い、説明しようとした寸前、アベリオンの方が早く叫んだ。
「……こいつが! 邪魔したから!」
こいつ呼ばわりはちょっとひどいんじゃあないかな?と思ったけれど、見下ろしてみるとそこには本当に痛そうにしているアベリオンがいて、ちょっとした罪悪感が湧いてきたので何も言い返せなかった。うう、悪かったよ。
「……君は、雑貨屋の子だね。どうだい、あのあとお母さんは」
先生はこちらを見下ろしてにっこりと微笑んでくれた。わたしは先生がお母さんのことを覚えていてくれたのが嬉しくて、元気いっぱいにお返事をする。
「うん、えーと、もう歩いてる! 大丈夫そう!」
「それは良かった」
「はい、ありがとうございます!」
先生は変わらず優しそうな声をしていて、わたしはその声が大好きだった。わたしと先生が朗らかに話しているのをアベリオンはむすっとした表情で見上げていた。
先生がアベリオンに手を貸そうとすると、彼は黙って自力で立ち上がった。その時初めてわたしはこの二人は知り合いなんだろうかと遅まきながら思った。
「で、君はまたどうしてこんな辺鄙なところにいるのかね」
先生は責めるでもなく心配するでもなくただ純粋に不可思議な様子でわたしに問いかけた。わたしはわたしがここに来た経緯を解説しようと自らの記憶を探る。
「えーっと、魔法をですね」
「魔法?」
先生が疑問符をつける形で相づちをうつ。その横でアベリオンが慌てたようにしてわたしの言葉を遮った。
「バカ! 言うな!」
え、なんでそんな、ていうかあんたわたしの来た理由知らないじゃない、と反論しようとしたが、すぐさま心当たりに思い当たった。そして思ったことをすぐ言ってしまうのは、子どもだったから仕方ないんだよ。
「あ、これのこと?」
わたしは右手を顔の前に持ってきて指さした。炎を受けた手の甲はほんの少しだが赤みがさしている。別にわたし自身はそんなの屁でもなかったし、強いていうなら転んだときの痣や擦り傷の方が痛かったので特に気にしてもいなかったが、先生はわたしのそれを見てさっと顔色を変えた。先生がわたしの手を慎重に取って言った。
「これは……どうしたのかね」
先生は極めて真剣だった。それを見て、これはわたしも真剣に答えねばならないと感じた。
「えっと、わたしがアベリオンをぎゅっとして、そんで手を離そうとしたんだけど離さなかったから、木の棒取って、なんかわからないけど、先生みたいなの言って、そしたらわーって光って、炎が出て、そしたらすぐ消えて」
そう、それでわたしはいたく感動したんです、という言葉は続かなかった。先生が怒っているのが、黙っててもわかったからだ。わたしは何をしただろうかと一瞬焦ったが、わたしよりもはるかに焦って顔面蒼白だったのは、アベリオンだった。
「……アベリオン」
先生が静かにアベリオンの名を呼んだ。アベリオンは、見ているこちらが可哀想になるくらい必死になって叫ぶ。
「……だって! 俺そいつに離せって言ったけど離さなかったから! そいつが俺の悪口言ったんだし! 先に痛くしたのはそっちだって!」
わたしはアベリオンのその様を見て事態を把握した。おそらくわたしは、結構洒落にならない、告げ口をしてしまったのだ。
「……アベリオン。来なさい」
もう一度先生がさっきよりも低めの声で呼ぶ。アベリオンは言葉に詰まり、しかしその場を動けずにいた。
「アベリオン!」
先生が叫んだ。アベリオンはびくっと体をこわばらせ、たっぷりとためらったあと、すごすごと先生の前に歩み寄った。わかる、わかるよその気持ち、これから怒られなきゃいけないときのヤな気持ち。
アベリオンはただうつむいて立ちつくしていた。先生はその正面に立って、一呼吸置いたあと、握った拳を振り下ろす。
「………っ!」
うわあ。声にならない声で痛みを耐えるアベリオンを見てまるでわたし自身がゲンコツをくらったかのような気分になってしまう。正直わたしはそんなに悪いことをされたと思っていなかったのでなんだかとても申し訳ない。
「痛いか」
アベリオンが先生の問いに無言で首を横に振るけれど、同じ背丈の私からは彼が涙ぐんでいることがはっきりとわかってしまう。大粒の涙がいまにもこぼれ出しそうだ。
「だが、お前はこれよりも痛いことをしたな」
すいません多分それよりは痛くないです、という言葉は言えなかった。多分そういう問題でもないだろうことは子供心にもわかっていたけど、それ以上に、大人のお説教には口を挟めないのが子どもという生き物なんだ。
「っ、うっ、うー……!」
アベリオンはすぐに限界が来たらしくてぼろぼろと涙をこぼして泣きはじめた。汚れた袖で彼は力任せに目元を拭い、精一杯声を抑えようとしている様子が見ていてとてもいたましかったことを覚えている。考えればあんた、昔っから泣き虫だったよね。
「儂は人の手を焼くためにお前に炎の魔術を教えたと思うか」
先生が穏やかに、けれど厳しい声でアベリオンを諭す。彼はやはり無言で首を振った。多分何を言ってももうしゃくりあげてしまってまともに話せはしないのだろうけれど。そしてここでわたしは初めて、彼が先生に魔法を教えてもらっているということを知った。
「ならばなぜこんなことをした?」
先生がぐいっとわたしの手を引っ張った。手の甲より正直擦りむいてる掌に先生の指が触れる方が痛いけどわたしはただ黙っていた。
「……って……、だって、そいつが……! 俺、だって、痛……かっ、た…のに……!」
アベリオンは自分ばかりが叱られるのがひどく不満らしかった。反対の立場だったらわたしもそう思うかもしれない。わたしはちょっと自分の胸が痛み、懺悔の決意を固めた。
「先生、あのね、違うの。あのね、最初にね、わたしが怒らせちゃってね、それでね、謝ろうとしたんだけどね、待ってっていってね、ちょっと強く掴んじゃってね、痛いって言われたけどわたし離さなかったの、だからね」
「だから炎で焼いたのか」
けれども私の援護射撃はとても援護にはならなかったようだった。先生はアベリオンを問い詰め、アベリオンは何も言えなかった。
「………お前がそのような使い方をするなら、儂はもうお前に魔術など到底教えることはできん」
なるほど先生はこういう使い方はお気に召さないらしいのでわたしが魔法を習うときはそれだけはやめよう、などとちょっとだけ考える。アベリオンは淡々とした先生の言葉を聞いた途端涙と鼻水で汚れた顔をがばっとあげて、不満をめいいっぱい顔に表して首を横に振った。
「……やだ……!」
「言っただろう。力は正しく使え、と。儂はお前が正しく使えると信じて術を教えた。しかしお前は儂の信頼を裏切った。違うか?」
「……うー……!」
「約束を破った者に教えることはない」
「やだっ………いやだあっ………!」
アベリオンはひたすら首を横に振り続けていやだいやだ言い続けた。その様子を見てた当時は多分「アベリオンは魔法を本当に習いたいんだな」としか思わなかったんだろうけど、よく考えたらそこまで必死になるのも無理はない話だよね。だって、弟子として育ててもらってるのに、それが弟子でなくなるとしたら、ってことだもんね。
アベリオンは左手を伸ばして先生のローブの端をぎゅっと握っていた。相変わらず右手はとどまることを知らない涙を拭うのに忙しく、わたしは彼の様子を見ていていたたまれなさが限界に達していた。いくら自分が怒られているわけではなくともお説教の場面に立ち会うのは心底しんどいことなのだ。
先生はそろそろいいか、と頃合いをはかっていたようだった。
「………ならば、もう二度とこのようなことをしないと誓うか」
アベリオンは泣きながら頷いた。
「全てを力で解決しようとはしないな? 知識が詰まったその頭を、やたらに魔術をふるうでなく、まず人と話すことに使うことを誓うな?」
アベリオンはまたこくこくと頷いた。力で解決しようとはしないな?のあたりでわたしの胸もちくりと傷んだ。いや謝ろうとは最初にしたんだけどさ、うん、あんなに強く掴むことはなかったかもしれない。ごめんね。
「では、謝りなさい」
先生はアベリオンの頭を撫でた。その手つきは優しくて、わたしはいくらか安心する。
「……ごめん、なさっ……」
「人を幸福にする力を、傷付けることに使って、ごめんなさい」
「………ひとを、こうふくにする、ちからを……きずつけることに、つかって、ごめんなさい」
「儂だけでなく、この子にも、謝りなさい」
先生はアベリオンの体をこちらに向けて謝罪を促した。泣きはらしたアベリオンの顔を真っ正面にとらえてわたしの体はこわばる。森で会ったばかりのときにはあんなにもふてぶてしかった少年が、いまや元々の目だけじゃなくて目元まで赤くして、呼吸に合わせて肩まで上下させて弱々しい表情をしているのがわたしには少し信じられなかった。
「……………ごめん、なさい」
アベリオンは小さい声で呟いた。何はともあれ謝ってくれたなら、謝られた側の取るべき行動は一つだ。
「うん、いいよ」
もういいよ。そう言うとアベリオンはどこかほっとしたような表情を浮かべた。
「あのね、わたしも、ごめんね」
多分わたしも彼の気に障ることをしてしまったのだからそれを謝らなければいけない。彼があんなに怒られるほど禁じられていた炎を使うまでに彼を不愉快にさせたことをわたしは申し訳なく思った。
「痛かった?」
尋ねるとわずかな間の後、ためらいがちにアベリオンは小さく小さく頷いた。わたしは更に申し訳なさが増して言葉を紡ぐ。
「今も、痛い?」
アベリオンはそれにはすぐ首を横に振った。わたしは少し安心して彼の左手の手首を優しく撫でる。アベリオンは抵抗しなかった。
「もう、しないようにするね」
だから、許してくれる?ときくとアベリオンはゆっくり頷いてくれた。わたしたちのこんなぎこちないやりとりを先生はただ黙って見守ってくれていた。
「だからね、あのね」
わたしは頭の中で精一杯今の自分の気持ちに当てはまる言葉を探し出した。何故かこんなことになってしまったけれど、わたしは別にアベリオンに怒っていたわけじゃないし(怒られてはいたけど)、お話もまだ途中だったからその続きもしたいと思っていた。どこに住んでるのとかまだ聞いてないし、それに何より肝心の魔法を教えてもらう約束をまだ取り付けていない。デネロス先生に習うつもりだったけれど、いや今でもそのつもりはあるけど、年の近い子に色々聞いてみたい気持ちもあったのだ。だからわたしはこれらの思考をまとめて、一言で表現した。
「友だちになってくれる?」
わたしにとっては正しい道筋を通って出た当然の結論だったのだが、アベリオンにとっては予想外の言葉だったらしく彼は完全にどうしたらいいかわからない様子で固まっていた。そればかりか、アベリオンの横に膝をついて彼の肩に手を置いていたデネロス先生ですら驚きの表情を隠せないでいる。アベリオンが答えに窮して、赤い目でじっとこっちを見ている時間がだんだん退屈に思えてきたあたりで先生が助け船を出した。
「……この子と、友だちになってくれるのかね?」
「なってほしいの!」
わたしは即答した。この子と一緒に遊んだらきっととても楽しいに違いないとわたしは思っていた。手を焼いちゃうのが駄目でも人を幸せにするために使うのがありなら、例えば木を切ってそこで火を起こすのとかは全然ありなはずだ。うまくすればそれで色々、焼き芋とか出来そうだ。
「……ふむ」
アベリオンは困ったような顔をして、顎髭を撫でながらじっと考える仕草をしている先生を振り仰いだ。先生はやがて二匹の山羊の縄を手に取り、私たちを残して歩き始めた。
「山羊は儂が戻しておこう。……遊び疲れてお腹が空いてきたら戻ってきなさい。そのときは、友だちも一緒にご馳走しよう」
先生はそれだけ言い残して去っていき、後には呆然としたアベリオンと喜色満面のわたしのみが残されることとなった。
「ねえねえ、もう一回! もう一回炎出してみせて! あ、あとデネロス先生に習ってるんだよね!? ねえどこに住んでてどこで教わってるの!? ねえねえったら!」
猫どころか象も殺せそうな私の好奇心いっぱいの質問攻めにアベリオンが辟易するのは一分もいらなかった。
私が迷った森の中で会ったアベリオンという少年はデネロス先生の家で弟子として育てられており、一緒に暮らすかたわら薬の調合や魔術などを習っていると聞いた。二人だけで生活していると聞いたとき、パリスと同じかな、と思ったけれどもついデネロス先生とは血が繋がっているのかどうか尋ねてしまい、それに対してアベリオンは怒ることもなく自分は捨て子だったと話してくれた。そのとき、絞り出すようにして「……俺が、こんなだから」と言ったとき初めてわたしは自分のウサギさん発言を恥じた。もう一回ごめんねと繰り返すとアベリオンはむすっとしながら、もういい、と言ってくれて、案外この男の子は優しいのではないかとわたしは感じた。
デネロス先生のおうちでご相伴にあずかり、その席でわたしは「魔法を教えてください!」と頼み込んだ。わたしは自分の夢を滔々と語ってみせたがデネロス先生の反応は芳しいものではなく、これは噂のジャパニーズドゲザまでしなければならないかと考えはじめたとき横でスープをすすっていたアベリオンが「……いいじゃん、別に」と素っ気なく、しかし明確に賛成してくれたときは彼が天使か何かのように思えた。デネロス先生はアベリオンの言葉を受けてわたしの弟子入りを認めてくれた。しかしいきなり魔術は駄目らしくまずは調合を覚えなさいと指導されてしまい、若干テンションは下がったがまあそれは許容範囲内だった。千里の道も一歩からというし魔女はお薬を何でも作れるものらしいし、何より、デネロス先生の家に来る用事がどんなものであれ出来るならそれでとりあえずは満足だったのだ。
晴れてわたしの兄弟子となったアベリオンは、妹弟子として評価するならば、とにかく頭が良かった。わたしが神殿で出されるたっぷりの読み書きの宿題に辟易している横で彼はすらすらと大人用の本を読んでいた。そんなものが読めるのか聞いてみるとむしろ読めないことの方が信じられないといった反応を返されたわたしの心中を三十字で正確に述べることができたらネルお姉さん特製魚のスープを進呈しよう。いつも忙しい農家の子やわずかなお金も払う余裕のない家の子は神殿に来られないことは知っていたけれど、神殿に来る必要のないくらい頭の良い子、という子がいることをわたしは初めて知った。しかも貴族でも何でもない子だというのだから驚きだが、そのあたりは考えてみればどんな貴族がつける家庭教師よりもすごい人がお師匠様なのだから当然と言えば当然だったのかもしれない。そんなアベリオンと友だちになったわたしは、もちろんそれを有効活用しないことはなく、とにかく神殿の先生から渡された本でわからないところは片っ端からアベリオンに聞いた。アベリオンはその度にそんなのもわかんねーのバカじゃねーのとひどいことを言ってくれながら熱心に教えてくれた。きっと自分が教える立場に回ることが楽しかったんだろうと思う。しまいには聞かないでも横から口出ししてくるようになったのでうるさーいとわたしが怒鳴るハメになった。アベリオンは本当にわたしが『よいこの神話』すら満足に読めないことが理解しがたいらしくバカにするのでわたしは神殿の中ではバカな方じゃないよ!(利口な方でもなかったが)と反論するとまた彼は本当にびっくりしていた。わたしはどんな難しそうな本でも読んでしまうアベリオンが、同年代の子はそこまで達者に文字を読めないというそんな当たり前のことすら知らないことに驚く。聞けばアベリオンは物心ついてからずっとホルムにいるけれども町の方にはほとんど行ったことがないらしく、森の中で先生と一緒に、先生が診療に出ていっているときは山羊と一緒にいるだけだったそうだ。わたしだったら退屈すぎて町に遊びに行っちゃうけどなあ、と感想を述べると彼は少しだけ間をおいてから「本があるから、別に」と答えた。
アベリオンが山羊の世話に行っている間に少しだけデネロス先生が彼について語ってくれたことがある。先生の診療についていかないのは勿論のこと、先生の庵にお客が来てもアベリオンは奥に引っ込んで姿を一切見せないらしい。「多分、昔儂の知らない間に町へ行って、そこで嫌な思いをしたのではないか」と先生は言った。わたしは初めて会ったとき彼が珍しくてじろじろ見てしまい、あまつさえウサギさんみたいだと言ってしまったことを思い出した。わたしはそのことを正直に言うと、デネロス先生は優しい声でお前さんは悪くないと言ってくれた。けど、それを言うならアベリオンだって悪くないはずなのに、なんでそんな隠れるような生活をしなければならないのかと思うと自分のことでもないのにわたしは腹が立った。
「だからお前があれの友だちになると言ってくれたとき儂は本当に嬉しかったんだよ」
先生の目が穏やかに細められた。わたしもね、アベリオンと友だちになれたことが、本当に嬉しかったんだよ、先生!
わたしがデネロス先生のところで修行なるものをしていることを知っている人は、まず第一に両親だった。わたしが調合のお勉強をすることには両親は寛容で、家に帰ったらまず両親に今日は何をしたかというのをつぶさに報告した(デネロス先生が調合だけ教えてくれたのは、まあわたしのセンスというか才能というかそんなのもあったかもしれないけど、まず両親に対する気遣いだったんだろう。魔術だったらちょっと話は違ったかもしれないから)。両親への報告の中で頻繁に出てくるのがアベリオンの話だった。とても賢くそのくせみんなに姿を見せないデネロス先生の秘蔵っ子なるものにうちの親は二人とも強く関心を持った。そしてパリスにももちろんその話はしていた。わたしがとにかくアベリオンはすごいんだよ、という話を何度もするのでパリスはパリスでとても気になっていたらしい。ある日わたしがいつものように支度を済ませてデネロス先生の家へ向かおうとするとパリスに呼び止められ、これから行く先を伝えると、じゃあ俺も行く、と彼は言った。わたしは二つ返事で、じゃあ一緒に行こう!と答えた。
わたしが連れてきた突然のお客にアベリオンは心底驚いたようで、玄関先でわたしがデネロス先生にパリスの紹介をしているとき彼は挙動不審に家の奥とわたしの居る玄関の間で視線を往復させていて、ああ今隠れるか隠れまいかと考えているのかと気づいたときにはなんだかとてもおかしくなった。
「あのね、アベリオン。わたしこれから先生につきっきりで教えてもらうから、その間パリスと遊んでてよ!」
わたしはとってもとってもいい笑顔で言ったことだと思う。ついでにデネロス先生もとってもとってもいい笑顔で彼らを山羊の小屋がある方へ送り出した。その後しばらくしてわたしがなんとかすりこぎをすりつぶさず苔のみをすりつぶす力加減を会得したところで二人は帰ってきた。二人は思わずわたしが嫉妬してしまうぐらいに仲良しになっていて、わたしは、アベリオンが自分だけのアベリオンじゃなくなったことにちょっとだけ寂しさを覚え、そしてこれからは三人でもっと違う遊びができるようになるだろうことに大きな期待を膨らませた。なので、うん、わたしは、アベリオンの腕にある引っかかれたような跡やパリスの顔にある見覚えのあるような薄い火傷の跡は些細なことだと思って、今仲良く笑ってるならそれでいーかなーと見て見ぬふりをしたんだけど、デネロス先生は見過ごすはずもなかったね。パリスが増えて賑やかになったのはいいんだけど、アベリオンとパリスがお小言くらうのにわたしまで巻き添えにされるようになったのはちょっと誤算だった。ま、いいんだけどさ。
そんでもってある日のこと。先生は朝から診療に行っていておうちにはアベリオンしかいなかったんだ。アベリオンが山羊の世話をしおわったあと、いつもどおりにわたしたちは森の中で木登りや虫取りやその他諸々をして遊んでた。でも先生に教えてもらうはずだった分の時間があったからさ、それと同じ感覚だと時間が余っちゃったんだ。だからパリスは言った。
「ネルんちいこーぜ。別に俺んちでもいーけど」
遊び場を変えよう、という彼の提案にわたしはなんら反対することはなかった。そう問題は残りの一人だった。見れば、彼はどこか強張った顔でわたしたちをじっと見つめていた。
「……じゃあ、行ってこいよ」
言外に彼は、自分は行かない、という含みを持たせた。わたしはアベリオンがそんなことを言うことが悲しくて、寂しくて、でも何一つそんな思いを口に出せなかった。けれど、わたしの横の自称兄貴分はやはり格が違った。
「何言ってんだよ、お前もだよ」
パリスはぐい、とアベリオンの手を強引にひいて歩き出した。わたしはこの時ほどパリスがいたことに感謝したことはない。わたしとパリスの付き合いの中でパリスが一番輝いていた瞬間はいつだと聞かれたらこの時をわたしは挙げるだろう。わたしは素早くパリスの反対側に回ってアベリオン連行体勢を完璧にした。
「ね、一緒に行こう!」
わたしはいざとなったらちょっとだけ強く握ってつかまえるつもりだったが、アベリオンは思ったほど抵抗を見せず、やや重い足取りながらもわたしとパリスと手を繋いで最後には町の石畳を踏みしめた。彼は最初はとても緊張していてあたりをきょろきょろと見回し、わたしも思わず彼を奇異の目で見る人がいないかどうかちょっと気になってしまう。
「お前、初めて町くんのか?」
パリスが聞いた。アベリオンは何かを咎められたかのように肩をすくめる。
「初めてじゃない、けど……」
「あー、滅多に来ないんだよね」
わたしはさりげなくフォローを入れる。パリスはふーんと言ったきりまた黙々と歩き出す。途中わたしはお店の常連さんと通りすがったので笑顔で挨拶した。お友達?と聞かれたのではい!と元気よく答えて、ついでにアベリオンに「ほら、挨拶!」と肘でせっつくと彼は常よりだいぶ小さい声でこんにちは、と言った。やっぱ人見知りだよねあんた。常連さんはにこやかにこんにちは、と返してくれたのちにどこのおうちの子?などといくつか質問をして(アベリオンが特異な姿をしていることを差し引いても、小さな町で知らない子がいるのはそれなりに珍しいのだからこういうのは仕方ない)、それにアベリオンがぼそぼそと受け答えするやりとりを繰り返したあとで笑顔で別れた。
「ほら、大丈夫でしょ?」
わたしはにっこりとアベリオンに言ってやった。アベリオンはほんの少しほっとしたように笑ってくれた。
わたしの両親は噂のアベリオンくんが来てくれたことに驚きとそれ以上の喜びを全く隠しもしないで歓迎した。わたしは事前に、というか一番最初に彼が自分の白い肌と赤い目を気にしていることを包み隠さず言ってあったのでうちの親はそれに触れることなく、しかしやはり好奇心は抑えることなくアベリオンに接した。デネロス先生は優しくしてくれるかとか、普段どんな本を読んでいるのかとか、魔術はどんなものを使えるのかとか、その他色々。最初はやはり緊張していてお馴染みの一言返答で済ましていたアベリオンも夕飯を食べた頃にはだいぶ打ち解け、声量もいつも通りになっていた。帰り道でお父さんが「ネルをよろしく頼むよ」なんて冗談のように言って、アベリオンがやや面食らったあと「はい」と言ったときには私は吹き出してしまった。アベリオンが「はい」だって、「はい」! 大体よろしくしてあげてるのにはわたしの方なのにねー、とアベリオンを覗き込むと、じゃあこれから先宿題は全部一人でやれよとわたしにとってこれ以上ない切り札を出されてしまい、わたしは「ごめんなさいよろしく頼みます!」とすがりついた。アベリオンはやっぱりばーかと言って笑った。
考えれば先生に何も言うことなくアベリオンを連れ出してきてしまったのだと気づいたのはアベリオンの帰りついでにお父さんと一緒にデネロス先生の家に荷物を取りにもう一回やってきたときだった。デネロス先生はわたしたちが日が暮れても戻ってこず山羊の放牧場にもいないことでひどく心配したらしく今まさに杖を持って森の中へ捜索しにいかんとしていたところだった。わたしは先生にごめんなさいと謝り、お父さんが詳しい事情を説明してくれた。先生は驚きながらもお父さんの話を黙って聞き、あらかたわかったあとにアベリオンに向かって楽しかったか、と尋ねた。アベリオンは無言で頷き、先生は嬉しそうに眼を細めて愛弟子の頭を撫でた。なんだか羨ましくなったのでわたしもその場でついお父さんに抱きついてしまった。こうしてホルムの町に白い子が馴染んでいって、賢者の秘蔵っ子はあっという間にただの近所の悪ガキと化し(頭の良いバカほど手に負えないものはない)、段々とアベリオンが顔見知りや友だちを増やしていくごとにわたしは彼の人見知り姿が見られなくなっていってそれだけが残念に思えた。
そういえば、わたしとアベリオンの楽しき優しき麗しき弟子ライフの具体的な描写はまだだったかな? わたしは調合を教えてもらう約束だったので、まず最初はどんなお薬があるか教えてもらい、それから材料と器具を見せてもらい使い方を実演してもらい、採集のコツや場所も実地で仕込んでもらい、気づけばどんどん薬作りの道にのめり込んでいった。それはわたしの思う魔女の修行とはちょっと違ったけれどこれはこれで楽しかったので特に不満もなかった。わたしの物作り好きな性分とあいまってわたしは調合を楽しく教わっていたのだけれど、一方でわたしの親愛なる兄弟子はこっち方面はあまり得意ではなかった。夢中になって山を駆けカゴの中に草を放り込み、庵に戻ってから井戸の水でそれらを丹念に洗いすりつぶすことを繰り返して一つの薬が出来上がるのにわたしは言いようのない達成感を得るのだが、反対にアベリオンは採集の段階から既に面倒くさがっていたりした。それでも一緒に教わっていた最初は一日の長もあってアベリオンの方が出来ていたのだけれど、徐々にわたしが知識を得ていって、そして実技では実家仕込みの細かい手作業が得意なわたしにあっという間に追い抜かされたときに彼はプライドがぽっきりと折れてしまったらしく以降はまともにすり鉢に手を付けなくなった。デネロス先生がその態度を散々注意したけれどやる気が出ないものはどうしようもなかったので、以降は私一人が先生の薬の知識を受け継ぐこととなった。この点で言えば、わたしがいなければアベリオンももう少しやる気になって先生も愛弟子に全てを継がせることができたのかしらと申し訳なくならないこともなかったけれど、一方で、わたしがアベリオンに勝ることがあってしかもそれで先生を独り占めできるということに優越感を感じていたこともあったのでわたしは容赦なく手早く傷薬を作ってアベリオンに鼻高々と自慢してみせた。アベリオンが長い間傷薬の一つも作れなかったのは――正確には作ろうとしなかったのは――間違いなくわたしが原因なのだが、謝ったりはしない。何か一つくらいはあんたに勝ってないと、わたしだって拗ねちゃうよ。
魔術師の大事な働きの一つである調合を受け持つのがわたしであるなら、魔術師の本領である魔術を極めるのはアベリオンの役目だった。彼は薬をいじっている暇があるなら杖をもち、本を見ながら詠唱をした。そう彼はわたしと会った頃には既に呪文を唱えられた、つまり、古代の文字がある程度は読めたのだからそりゃあ現代の文字が読めないわけがないのだがそれに気づくまではしばらく時間がかかった。アベリオンはわたしがいない間に先生に色々教わっているらしいけれど、それだけでなく、わたしはアベリオンが自分から学んでいるという印象を強く受けた。先生が大切にしている本をアベリオンが勝手に持ってっちゃってて怒られるという場面にわたしは何回か遭遇した。それは言い換えればアベリオンが誰に言われることもなく自分から知識を貪欲に吸収しているということでもあった。またそうかと思えば彼はあるときは地面の蟻の巣を眺めあるときは木の上で葉の一枚をつぶさに観察し、それがどうしてそうなっているのか物事はどのように出来ているのかなどを語ってみせて頭の中の情報を整理しながら吐き出した。わたしは正直に言えばそういうときのアベリオンが何を言っているのかまったくわからなかったんだけど、彼が「すげーよな!」ときらきらした瞳で同意を求めてきたときには毎回黙って笑って頷いていた。よくわからなかったけれどもアベリオンのそんな顔を見るのは好きだったのだ。
小さい頃は、アベリオンは新しい魔法を覚えると必ずわたしに見せてくれた。最初出会い頭に小さい炎をわたしにお見舞いしてくれた彼だっただけれども、さすがにもうそんなことはしなくなった(喧嘩の際にそれをするとわたしが後から絶対に先生に告げ口するのを学習してからは、だけれど)。何もないところから炎があがり、風が吹き、水が湧き、氷が降って小さい雷が光る度にわたしは拍手喝采で彼を称え、アベリオンはもし満足顔大会があったらホルム地区で優勝できそうな顔で得意げにする。こんな素晴らしい友だちをもってわたしは文句など何一つ無かったけれど、でも、見ているだけで満足するわたしでもなかった。デネロス先生には魔術は教えないと言われてしまったけれどそんなことですごすご引き下がるようなら夢を持つ甲斐などないのだよスティーブ。そしてわたしはもしにこやか顔大会があったらネス全国大会に出場できそうなにこやかな笑顔でアベリオンをすごいと賞賛し、十分に上機嫌にさせたあとに「わたしもそれやってみたい!」と言えば、アベリオンは「しょーがねーなー」と満更でもない様子で彼の木の棒を貸してくれたのだった。ちょろいもんだよスティーブ。
アベリオンはわたしに文字を教えるのと同じかあるいはそれ以上の熱心さをもってわたしに魔法を教えてくれたけれども、一方でわたしは読み書き以上に、まったく、ちっとも、魔法ができなかった。大体まず先生やアベリオンが操る古代の言葉すらわたしには理解ができないのにいきなり呪文を唱えようとするところから間違っている気がしないでもないのだけど、幼いわたしは一生懸命にアベリオンのあとに続いて聞いたままを復唱しようと頑張った。意味がわかんないから難しい、とわたしが愚痴るとアベリオンは意味なんてわかってなくてもいいからとりあえず唱えりゃいいんだよと身も蓋もないことを言ってみせたので、魔法とはそんないい加減なものなのかと結構衝撃を受けた記憶もある。でもやっぱりわたしがところどころとちるのでアベリオンは家から持ってきた本を開いて「ここ読めよここ!」と該当するとおぼしき箇所を指し示したが、だからそんなの読めないんだって。しかしまあなんとか覚えたとおりに唱えてみせるところまではいっても、今度はその先から永遠に進めなかった。
「魔力を込めないで唱えたって周りが応えてくれるわけねーじゃん」
アベリオンは当たり前のように言い放ったが、わたしにとっては何ら当たり前のことではなかった。魔力ってなにさ、と問うと彼は自分を指さして言った。
「ほら、これ。お前も隠してないで出せよ」
いや、これと言われてもちっともわかんないんすけどアベリオン先生。わたし隠すも何もそんなの知らないんですけど。根源的な感覚の違いは幼子二人が言語化して説明し相手を納得させるには非常に難しいもので、意思疎通は困難を極めたけれど、どうやらアベリオンにはわたしにはわからない何か見えてるような感じてるようなものがあって、それが魔法を使うのに欠かせないものであることは理解した。が、わかったからといって出来るようには到底ならなかった。目に見えないものをどうやって操ればいいのか、アベリオン師匠に八つ当たり気味に聞いてみたら答えは「気合いだ!」と返ってきましたまったくもって単純でその上難解極まりない返答ありがとうございます。話は前後するけれどその頃はまだアベリオンがデネロス先生とわたし以外の人間にはろくに接していなかった時期なので、わたしのような人間が結構多いことをよく理解してなかったのもあるのだと思う。とにかく彼はわたしが出来ないのがおかしい、出来て当たり前だという論調でわたしに詰め寄ってちっともわたしを慰めたり励ましたりといったそういう優しさを発揮してくれなかったので、わたしもつい苛立ってしまって「アベリオンの教え方が悪いんだよ!」と全てを相手のせいにして怒って帰ってしまったこともある。けれど小さい橋を渡って家に辿り着くころにはそんな風に別れたことを後悔していて、夕ご飯のあとベッドの中で教えてもらった呪文を忘れないように復習し、翌日も森の中へ駆けていく――こんなことを繰り返した。その後うちにも遊びに来るようになったアベリオンは大半の世の中の人が魔力なんて気にもしないで生活していることを知るようになったけれども、わたしに対してのスパルタが改善されることはなく、わたしも懲りずに彼に教わることをやめなかった。それほどまでにわたしの魔法使いになりたい願望は強かったとも言えるし、アベリオンがそれだけ熱心にわたしに教えてくれたということでもあった。ねえアベリオン、あんたは絶対認めないだろうし、わたしも少し自惚れかなあなんて思ったりするけど、でもやっぱりさ、わたしはあんたの最初の友達で、だから特別だったんだよね? だから同じようにさ、わたしにとってもアベリオンは大切な友達だったから、魔法を使えるようになりたかったんだ。
そうしてデネロス先生から調合を教わりつつ先生に隠れて兄弟子に魔法を教わっていた日常の中のある日。いつものように町の小川に架かる橋を渡ろうとしていたとき、道の向こうから見慣れた人影が姿を現し足を止めた。遠目からでもわかる帽子に、ぼろぼろなのに持ち主と同じだけの時を経てきたかのような貫禄を持つマント、うす灰色の口ひげや目元の深い皺は老いた証であるはずなのに目の光や体の運び方は老人などではなく歴戦の勇士を思わせる人。
「ラバン爺!」
わたしが呼びかける前から彼の人はわたしに気づいていたらしく、両手を広げて抱きつくと脇の下に手を入れて抱き上げられた。ラバン爺の身体から香る草原の匂いがわたしは大好きだったので、目の前の首に抱きついて鼻孔一杯にラバン爺の匂いを吸い込む。
「久しぶり! いつ戻ってきたの?」
「今さっき、ってとこだな。元気だったか?」
「うん!」
ラバン爺はこのホルムにふらりとやってきてはしばらく逗留する旅人で、わたしが小さい頃からずっとそのサイクルは変わらない、まるで渡り鳥のような人だ(そういえば昔からずっと変わらないけど今何歳なんだろう?)。ホルムは小さな港町だから外からわざわざ何の目的もなく訪ねてくる人は珍しいので、小さいわたしは雑貨屋を訪れたお爺さんに興味津々で話しかけて以来、ラバン爺のもっとも幼い友人となったのだ。ラバン爺がホルムに何のために来ているのかよくわからないし、多分ただ単に遊びに来ているだけなんじゃないかとも思うのだが、とにかくこの人はホルムで何をするでもなくふらふらしていることが大半なので暇を持てあました子どものわたしを邪険にすることなくいつまでも付き合ってくれるところが好きだった。なのでそのときのわたしも、当然ラバン爺は暇なはずだと決めつけて素敵なお誘いをした。
「ラバン爺! ねえ、北の森で一緒に遊ぼう! 森の中に面白い友達がいるの!」
以前ラバン爺がホルムに滞在していたときはわたしはまだアベリオンを知らなかったので、ラバン爺も知らないはずだ。元々アベリオンと遊ぶつもりだったわたしは旧知の友に彼を紹介しようと思い立った。
「面白い友達?」
ラバン爺はわたしの思った通り暇だったらしい。肩をぽんぽんと2回叩くとすぐに地面に下ろしてもらえたので、わたしは橋の向こうを真っ直ぐ指差した。
「ウサギさんみたいで、全然そんなに可愛くない、わたしの友達!」
すっかり我が庭となった森の細道を、手を繋いでお喋りをしながらデネロス先生の家へとわたしたちは向かった。ラバン爺がいなかった間にあったことを思いつくまま徒然にわたしは話し、その中でデネロス先生に弟子入りして調合を教えてもらいはじめたこと、アベリオンという新しい友達ができたことも伝えた。小さな魔術師と老いた剣士の二人を同時に引き合わせていっぺんに友達自慢をしようとしたわたしの計画は結果から言ってしまえば見事に成功し、お互い挨拶を済ませた少し後にはもうアベリオンがラバン爺を後ろから羽交い締めにするくらいには仲良しになっていたので、嬉しくなってわたしも前からタックルして抱きついた。その後若干咳き込んで地面に座り込んだラバン爺をわたしたちは特に心配することもなく興味の対象はすぐに移り、今度は二人で木登り競争をすることにした。競争はどっちが勝ったのだったか忘れたけれど、それが終わった後でわたしたちは太い木の枝に並んで座った。
「そういえば見ろよネル、新しい魔法を覚えたんだ!」
アベリオンは腰からいつも提げている小さい焦点具を手に取るとわたしにはわからない言葉を囁きはじめた。やがてすぐに詠唱を終えると杖の先に小さな竜巻ができたのを見てわたしは歓喜する。アベリオンが得意げな顔をして腕を組むと、その様子を下から見ていたラバン爺も感嘆の溜息をひとつつき、目敏いアベリオンはますます調子に乗った。
「もっと見せてやるよ!」
アベリオンは枝を一つ一つ降りていって地面に足を付けるとラバン爺の目の前に立ってすぐにまた別の呪文を唱え、炎や水を次々と喚んでみせた。その小さな奇跡の一つ一つに感心するラバン爺の反応にますます気を良くした彼はあらかたの魔法を見せ終わったあとわたしに向き直って、呼んだ。
「ネル!」
呼ばれたからには行かなければなるまい。慣れた手つき足つきで枝の舞台から地に降りると彼は小杖をわたしに突きつけて言った。
「教えてやるよ!」
アベリオンは瞳を輝かせていたけれど、一方でわたしはちょっと躊躇ってしまった。本来は嫌なことではないはずだけども、出来なくて馬鹿にされるのが常のことだし、二人きりならもう慣れたものだけれどラバン爺の前でそうなるのはちょっと嫌だった。しかしアベリオンはそんなわたしの乙女心など知らぬことのように強引に杖を握らせて覚えたばかりという呪文をゆっくりと唱えてみせたので、わたしも仕方なしに耳から聞いた響きを精一杯真似て発音してみる。やっぱり違うと言われる。それを何度か繰り返してどうにか及第点をもらうと、今度は魔力を込めろと命じられる。だからそんなのどうやってやればいいのか、と聞くのも今更なのでとりあえず魔力とやらが出るように気合いを込めてみるけれども、腕に力は入れども風は応えることなく、毎度のことながらもわたしは肩を落としアベリオンは不満そうな顔をするのだった。
「だからぁ、力じゃなくって、」
アベリオンが更に口を出そうとしたとき、ラバン爺の渇いた手がわたしの頭にそっと置かれた。
「ま、そのへんにしておけ」
私の持つ杖の先をラバン爺が空いた片方の手で軽く握り、わたしはその手つきにつられて力を緩めた。皺の刻まれた手がゆっくりとわたしの指から杖を抜き取る様をアベリオンがただ静かに見守っていた。
老いた人は静かに口を開いた。耳に染み渡っていくような深い声だ。
「アベリオン、お前さんは、大した奴だよ。その年でそんだけ魔術を使える奴は俺もお前以外に知らない」
ラバン爺はいつもの茶化すような様子でもなく真剣な顔で、純粋にアベリオンを賞賛した。彼はそれにどう反応したらいいかわからないようで、照れたような困ったような顔でまごついていた。
「だから、お前は知るべきだな。全ての人間がお前のようにはなれないってことを」
そして続いた言葉に固まった。
「お前がどんだけ力を込めても、ネルのようには重いものを持てないのと同じように、ネルがどれだけ頑張ってもお前のようには出来ん」
ラバン爺の言ったことは、実はとっくのとうにわかっていたことだけれど、それでも心に棘が突き刺さったかのような痛みが走った。けれど、出来ないと言われてしまったわたしよりも傷付いたような顔をしたのが一人、目の前にいた。なんであんたがそんな顔してるのよ、アベリオン。
「…………でも」
逆説の言葉だけが響いたものの続きは口から発せられることはない。きっと頭の中で一生懸命反論の材料を探しているんだ、それでも見つからないんだ。
「……自分だけ特別だってのは憧れてみたりするもんだが、その実そう良いもんでもないよな。だけど世界と違うってのは世界に否定されることと同じじゃない。こんな可愛い友達がいるのがその証拠だろ」
「…………かわいくはない」
きっちりとそんなとこだけは否定してみせる彼が少し憎らしく思えるが、多分、そこぐらいしか違うと言えるところがなかったのかもしれない。わたしもみんなより力が強いことで熊女だとか言われたりして嫌な思いはしたことはいっぱいある。だからわたしはこんな力なんかなかったらなあとたまに考えたことはある。でもアベリオンは魔法を習うのにすごく熱心だし、わたしは魔法にとにかく憧れていたから、アベリオンが「良いもんでもない」を否認しなかったことが意外に見えた。
「駄目だぞ女は褒めないと、将来モテないぞ」
「うっせー!」
ラバン爺が年の功から来る含蓄を全く感じさせない助言をするとアベリオンがむきになって叫ぶ。まず無駄に偉そうで口が悪くて大体上から目線なところを治さないとモテるのも何もないと思う。でも本当は、そうやって彼は立っているのかな、なんて感じられたりもして。
「ま、お前はそのままでいいから、無理することもさせることもないってこった」
ラバン爺が穏やかにその手をわたしの頭からアベリオンの頭へと移動させると、彼は振り払うでもなく黙って撫でるがままにされていた。間接的に無理と言われたわたしは泣きたいような気持ちになったがやっぱり目の前の彼の方がよっぽど泣きそうな顔をしていたのでどうすることもできなかった。だからなんであんたの方がそんな顔をしてるの。
もしわたしが魔法の才能に溢れた神童だったら、あんたと同じように杖を振り回してはしゃげただろうか。アベリオンは、それを望んでいたのだろうか。
ラバン爺は手にある小杖を静かにアベリオンへ差し出した。彼は無言でそれを受け取った。
魔法使いになりたかったんだ。沢山のお話の中に出てきた素敵な魔法使いに。だけど、ねえ、わたしの大好きな御伽噺の女の子は友達もお母さんもいて、幸せそうに話は終わったけれど、助けられて森へ去っていったウサギさんはどうなったんだろうか? ウサギさんに友達はいたのかな、変なヤツっていじめられなかったのかな、女の子はウサギさんにお礼を言いに行かなかったのかな、なんてことが気になってしょうがない。ひょっとしたらウサギさんは女の子に罠から助けてもらったからだけじゃなくて、仲間が欲しくて魔法を教えてあげたんじゃないかなって最近考えるようになったんだ。わたしさ、どんだけあんたに教えてもらってもできなくて、あんたはそれに苛ついてわたしもそれで怒ったりよくしたね。だけど、あんたがあれ以来徐々にわたしの前で魔法を見せることが少なくなっていって、わたしから頼んでもそんなに前より熱心に教えてくれなくなって、わたしは、アベリオンに諦められちゃったのかな、って感じてすごく悔しくて寂しくなった。勿論色々あんたは考えてたんだろうけど、わたしはやっぱり魔法使いになりたくて、あんたみたいに自由に色んなものを操ってみたくて、あんたにできたよって言いたくて、寂しい顔はしてほしくなくて、アベリオン、君と一緒の世界を見たかったんだ。
「だからなんでそうなんだよおっかしーだろ!」
あれから時は過ぎ。あの頃は美少年と言えなくもなかったのになーと十年来の友人の顔をぼんやりと眺めながら回想に耽っていたのだけれど、目の前のヒートアップしつつある現状を見るとそろそろ止めに入った方が良いのかもしれない。
「おかしくねーよお前が馬鹿なんだろ! いいか、そもそも闇に属する術というのは喚んだり作ったりするものでなくてだな、むしろそこにあるものを払いのけるのが基本なんだよ」
「馬鹿はお前だ馬鹿、明らかにそっちの方が非効率的じゃねーか? そんなの気象や環境によって左右されるもんなんだし」
うーん、まだ大丈夫かな? 古そうな本を間においてテーブルで向かい合うように座っている二人はわたしには何が何だかわからない会話を繰り広げており、中身がいまいち理解できないうえに彼らの普段の口調がとても荒っぽいのも合わさって議論と口論の区別が難しいのだけれど、とりあえずは様子見を選択してみる。
先ほどから一生懸命わたしの兄弟子と論を交わしている彼はシーフォンと言って、このホルムで発見された遺跡を目当てにやってきた探索者の一人だ。探索者と言えばいかにもなゴツゴツした鎧を身に纏った剣士(メロさんはわかりやすすぎるよね)や、財宝目当てっぽいちょっと荒っぽい雰囲気の人たち(パリスは似た感じなのでたまにヨソ者にヨソ者と間違えられると憤慨していた)が頭に思い浮かぶけど、彼は見た感じわたしよりも年下っぽくて体格も良くない、というかむしろどっちかというとひょろひょろな感じだから異質と言えば異質だ(ただしガラの悪さはそんじょそこらのチンピラよりも上だと保証しよう)。そんな彼が他の探索者にひけを取ることなくやっていけているのはひとえに彼自身の持つ膨大な知識とそれを使役する力の存在が大きく、それはアベリオンと同じだとわたしでもわかった。デネロス先生とアベリオン以外の魔術師なんてほっとんど見たことなかったわたしはそりゃもう大いに好奇心に胸をときめかせ、アベリオンとの決闘の後に「大丈夫?」なんて心配しながら(フリじゃないよ! 本当に心配もしてたよ、一応!)お近づきになったわけだけど、多分わたし以上に好奇心が刺激されていたんだろうね、この人は。
「だからそれじゃ応用がきかねーだろって! 実戦レベルじゃねーよって話だ!」
アベリオンは多少ムキになったような顔をしてはいるが、滔々と何がそれだからあれがこれというような長話をしてみせる様子をわたしは久しく見ていなかったなあと改めて思う。でもこれはあの頃の、自分の中に詰め込まれた情報を整理するような話とはちょっと違って、むしろ反論に立ち向かうために即座に頭で構築した理論なんだろう。それはきっとわたしみたいにただうんうん頷いて聞いてるだけの相手には出てこない言葉だろう。アベリオンの言葉を理解した上で、自分の理論を押し出してくる相手じゃないと駄目なんだ。
「実戦レベルを考えるならまずは詠唱のコストを考えろよ! いいか、お前の足りない頭じゃ不可能かもしれねーが、実際には自分の頭でその場を判断して物質や光をどかす手続きを取った方が何倍も早いんだよボケが、可哀想なお前のためにわかりやすく例をあげていうならばな……」
しかしアベリオンがまだ喋ってる途中にシーフォン君がかぶせてきたのを見ると君らは相手の話を聞く気があるのかいと一瞬疑いたくもなるが、まあここでわたしが口を挟むと更に泥沼化しそうなのでやめておこう。シーフォン君は案外こういう説明なんかに慣れているようでさらさらと図を書き出して説明を始めたため、それならわたしにもちょっとはわかるかなあと淡い希望を持って覗いてみたりしたが肝心の図につけられた注釈が古代文字だったのを見てわたしはそんな望みを溜息と共に葬り去った。現代語でお頼みもうすよ、しーぽん。
似たもの同士だよな、とパリスは言った。それはわたしもそう思う。行動だとか思考パターンだとか、そりゃまあ赤の他人なんだから似てないところもいっぱいあるんだけど、アベリオンならこう来るかなと思ったことはそのままシーフォン君にも適用できることが多い。けれど正確には似ているという表現を用いるより、彼らは同レベルなのだと結論づけた方が相応しい、と思う。行動も思考パターンも、知識も技術も、生きる世界も。
「…………いいなあ」
わたしが幼い頃から焦がれても焦がれても届かなかったところに彼らはいるのだ。そのことがただ単純に、羨ましい。
「あぁ?」
わたしの独り言のような呟きに反応してくれたのはアベリオンだった。何事であれ無視されないというのは嬉しいことだろうけど、若干議論の熱を引きずって剣呑な顔をした二人に見つめられるのはあまりいい気持ちでもなく、下手したら自分に矛先が向いてしまいそうな状況をさてどうしようかと思案する。
「や、その。ただね、二人が――」
喧嘩のようなディスカッションで、苛つきながら討論を重ねて、罵倒しながら同じ次元で魔術を語り合う。それは多分、わたしの夢そのものではないけれどとても近いもので、やろうとしてもできないことで、だから。
「――仲が良いなあって」
本音と羨みと嫉妬と、ちょっとした祝福の気持ちを込めてみる。
「はあ!?」
訳が分からないというように語尾のイントネーションを捻りあげた二人を見てやっぱり同レベルだと確信する。君らは本当に元気だね。アベリオンがこんなに喋ってこんなに活き活きしてる姿わたしは久しく見たことないかもしれないよ。シーフォン君についてはわたしは良く知らないけど、でもなんとなく見てると楽しそうだなって思うよ。きっと君らが二人一緒にいるときは、笑ったり怒ったりするだろうけど、つまらなさそうな顔だけはしないだろうなって思うんだよ。
「ま、これでネルお姉さんもちょっと一安心ってとこかな」
今でも魔法使いになりたいとは思っている。目の前の二人を見ると尚更、自分との格差を思い知ると同時に、やっぱりわたしも!という気持ちが強くなる。魔女になりたいなという気持ちの中にも色々あって、純粋な魔法への憧れとか、友達と一緒のものを共有したいという欲求とか、そしてそれと同時に友達の仲間になってあげたいという想いがあった。まだまだ魔法への憧れは潰えていないし、アベリオンとシーフォン君の話についていけないのは寂しいけど、3つ目に関しては、わたしでなくてもいいかなと最近うっすら感じている。
「なんだそれ、意味わかんねえ」
アベリオンが不可解そうに目を眇めるけどもそんなのお構いなしだ。
「というわけでシーフォン君、馬鹿で口悪くてどうしようもないとこもあるけど、根は悪い奴じゃないから、コレよろしくね」
『コレ』を指差しながら笑うと思った通り、「よろしくじゃねえよっていうかコレ扱いかよおい!」なんて文句が飛んでくる一方、反対側からは「は?キメぇ」なんて言われちゃったりして、全くあんたらは少しぐらいか弱い女の子に対する扱いを覚えておきなさいよ。でもそれくらいじゃネルお姉さんはへこたれないので、更ににっこりと笑ってあげると変な物でも見るような目で引かれた。本当にひどいな、もう!
近頃はこの二人と一緒に遺跡に潜る日々が続いている。遺跡の中は夜種がいっぱいで一匹ずつなんてとても相手にしてられないからそういうときは魔法がとても助かる。宮殿では昔の人が書いたものをこの二人が全部読んでくれるのも色々と楽だった(読まなきゃ良かった、なんて思ったりすることもあったけどさ)。けれど彼らはちょっとだけ体力がなくてちょっとだけ力不足だったりするので、そこでちょっとだけ力持ちのわたしが石をどかして道を開けてあげたりして、ついでに開かないドアはこじあけたりもして(うっかり罠にかかると二人が死にかけるので最近パリスに鍵開けを教えてもらった)、二人には出来ないことでわたしはパーティーに貢献している。魔女というわたしの夢とは程遠い現在だけど、もしわたしが非力な魔女で岩にささったツルハシすら引っこ抜けない子だったらこう上手く行ってなかっただろうから、これはこれでいいのかな、と最近はなんとなく思っている。輝く夢を見るのもいいけど、自分に出来ることでささやかに周りの人の手助けをするのも悪くはない。まあ仮にわたしが少しぐらい魔法を使えるようになったとしてもそれだけで食べていける気なんてさらさらしないし、目の前の二人に及びそうもないし、現実問題無いものをねだるよりは今自分が持つものを活かした方が良いのではないか、と思うわけだ。ガリオーさんに褒めてもらったのはちょこっと嬉しかったんだよね。物を作るの、嫌いじゃないし。
アベリオンに新しい友達が出来たとき、わたしはいつもちょっとだけ寂しくなり、そしてとても嬉しくなる。今度の友達は魔法まで使えちゃったりしていつもより寂しさ倍増だけど、その分嬉しさも倍増だ。トータルで言えば断然プラスだ。魔法友達になることはかなわなかったけど、魔法友達二人目をゲット出来たと思えばわたしにとってもなかなか悪くないことだ。魔法使いに囲まれながら、わたしはわたしなりにやっていければ、それは全く素晴らしいことだ。
森で出会ったウサギさんは、ついに女の子に魔法を授けてはくれませんでした。けれど、その代わり女の子はずっとずっとウサギさんの友達で、女の子の友達やウサギさんの友達も巻き込んでいっぱいいっぱい楽しく遊びました。古今東西に散らばる無数の御伽噺の中に、一つくらいそんなお話があってもいいと思わないかい?
「よし、じゃ、そろそろ行こうか!」
わたしはわたしの大好きな魔法使いたちにはじけるように笑いかけた。
了