夢を見る。杖を振りかざした僕の目の前で倒れている人間が居る。心臓を右手で鷲掴みにしながら苦悶の表情を浮かべているそいつは昨日まで動いていた。今はもう動かない。僕の周りに次々と人が現れては消えていく。

「おまえが」「どうしてこんなことを」「退学だ」「馬鹿なことを」「よくもあいつを」「取り返しがつかない」「調子にのりすぎた」「本家になんて言えばいいのか」「こんなものか」「絶対に許さない」「わかっているのか」「事故なのか」「もう駄目だな」

 そして僕は。


偽悪者の末路


 うざったいくらいの朝の陽光が目に刺さる。読みながら最終的に枕にしていた本から体を起こすと無理な姿勢をしていたためか少し体が軋んだ。くそ、やっぱりベッド1つというのがそもそも無謀だったんだ。隣でアホ面を晒しながら未だ眠りの底にいる馬鹿の鼻をつまんでやろうかと一瞬考えたが、ここで起こすと間違いなく僕がこいつの分まで朝飯を用意することが確定するのですぐに手を引っ込めベッドから慎重に降り、読みかけの本をテーブルの上に放り投げる。港で買ったこれは内容は悪くはなかったがいかんせん粗雑な出版社の刷ったものでところどころに読みにくいところがあるのが欠点であった。民間の出版物はこれだから良くない。やはり力を得るなら原本に限る。
 そう僕は力を欲している。何故力を欲するか? それは愚問だ。知識有る者が求めざるを得ないものが力なのだ。より高みにのぼろうとするのは人間の本能だろう。ただ、目下の動機としては、ベッドで未だにぐーすかしてるあの馬鹿を完膚無きまでに叩きのめすために力が必要なのである。
 何故叩きのめす相手と一緒に暮らしているかは、聞くな。
「……本棚の前にブックタワー作るのももう限界か」
 定住生活は色々と煩わしいことも多いが、持ち運べる量以上の本を所蔵できるのは長所の内の一つだ。しかしその長所も最近は陰りを見せ始めている。というのも、この狭苦しい部屋のキャパシティをオーバーするだけの本を僕たちがかき集めているからだ。長々しい検討の末にベッド1つを取っ払って本棚を取り付けた当初は良かったのだがそんなものあっという間に埋まってしまって結局本が床を侵食することになったのはある種当然の成り行きかもしれない。
 新しいところに引っ越した方が、と思わないでもないが、そもそもこの家自体がアベリオンの家ができあがるまでの借宿である。更に言えばこの生活を始めた当初ならまだしも大量の本という名の荷物ができてしまった現在、期限付きの家を選定するのも面倒くさい作業だった。そんなわけでまあ、本に囲まれつつ暮らしているわけだが、所詮この田舎町で手に入る本に大した物なんてあるわけもなく、僕は不完全燃焼な日々を送っている。
「……やっぱり東に行くか?」
 西シーウァのめぼしいあたりでは大体やることやってきたので、次にターゲットにするなら東の街だろう。ネスの首都ナザリはまだ手をつけていないので、ひょっとしたら僕が目にすることなく流れたホルムの遺跡の書物なんかもそこで見つけられるかもしれない。見栄っ張りの古代趣味(笑)で物の価値をわかっていない金持ちのところなんかに案外貴重な本が紛れているものだ。そして僕はその本当の価値がわかる者のところへ本を移しているただそれだけだ。馬鹿には使えなくとも僕なら本当の力を扱える。僕の知らない力がそこにあるかもしれないと考えるとしらずしらず足が動きそうになる。
「………んー……」
 後ろからぼんやりとした声が聞こえる。やっと起きたか、と振り返るとやつはまだベッドの上でまどろんでいた。アベリオンが意外と寝汚い、というのは最近わかったことだ。
 今すぐここから出て行けば誰も止める者はいない。
 清浄な空気が居心地の悪さを醸し出す朝、今まで何度そんなことを思っただろう? しかしそのたびに僕は、あるいは朝飯がまだだから、あるいは今荷物をまとめたらアベリオンもその物音で起きるだろうから、なんていった理由をつけては実行を先延ばしにしている。
 一緒にいよう、と言われた。何かの気の迷いでずるずるとここまで引っ張り込まれた僕は居を構え、具体的な何かから追われることはなくなった。

 けれども夢を見る。死の夢だ。


 もっぱらの稼ぎ手段は薬の調合だ。僕ら知識のある者にとっては常識も常識だが、本も読めないやつらはそれができないことも多い。そういう輩に薬を売る利益が僕らの主な収入源だが、アベリオンが貧乏人に勝手に無償で薬を渡すのには閉口している。
「だって払えないってんだから仕方ねーだろ」
 金が払えないなら諦めさせればいいんだ、なんて理屈は一向に聞きやしないこいつは本当に忌々しい偽善者だ。そんなんだからこのおんぼろ長屋から出られないんだろう、と言ってやると、「別に特に不便はしてないからいーだろ、まだ本は入るし」と返された。床のスペースはまだ余ってるが人のためのスペースがないんだろーが、それを不便はしてないって、……ああもう。馬鹿の相手はしきれない。
 一緒に修行をしようと言われた。実際、修行しようなんて名目を口にせずとも一日一回は喧嘩が始まるので勝手に修行状態にはなってるが、主にそれが家の中なので双方とも本気は出せず小競り合いになるパターンが多い。こんなので魔力が上昇するかは甚だ疑問だ。そもそもこいつは何が修行なのか、修行らしい何かをしようという気があるのか? 一度問い詰めてみたが、「読むことも修行だ」と流され腑に落ちずに終わった。僕は実戦でお前をぶちのめしたいんだよ。まあ、二人で同じ本を読んで、それについて語ることは嫌いではないけれど、お前の意見には常々反対したくなるな。それでもってまた怒鳴り合いの末隣人から苦情が来るのがお決まりのパターンだ。


 夢を見る。どうせ今日もあの夢だ。ほら昨日まで話してたあいつが倒れてる。死んでるんだろ? 知ってるよ、僕がやったからな。別段何とも思わないさ。なんていっても僕は悪党だからな、人殺しくらいなんてことない。
 いつもどおり近寄って顔を拝んでやろうと思った。今日は珍しく死体がうつぶせになっている。違和感を感じはしたが、特に気にもせずに死体を蹴り飛ばし転がした。

 ああなんで僕はその死体をあいつだと思っていたんだ?

 違う、年上ばかりの大学で少し僕と年が近くて、いつもくだらないことを話しては笑ってたあいつの死体じゃない。
「あ、べ、」
 僕の周囲に人が群がる。口々に嘆きを叫んでは消えていく。

「おまえが」「どうしてこんなことを」「ひどい」「なんてこと」「よくもアベリオンを」「取り返しがつかない」「調子にのりすぎた」「もう戻らないのよ」「仲が良かったでしょうに」「絶対に許さない」「わかっているのか」

 違う、僕じゃない、僕はやってない。僕は悪くない。だって僕はこいつを殺したりなんかしてない、僕は悪くない。

「じゃあ僕を殺したことは悪いんだな?」

 振り返る。アベリオンじゃない、お前は。


 目を覚ます。すぐ横にアベリオンが転がっている。僕は思わず肩を揺さぶった。
「――おい!」
 目を開けろ、返事をしろ。掴んだ肩は確かに体温があり、寝息もあり、冷静に考えれば生きていることは明白だったのだがそれすらも冷静さを欠いた僕は思い至らなかった。
「――んだよっせえな……」
 非常に機嫌の悪そうな声とともにアベリオンは緩慢に体を起こした。生きている、そんな当たり前のことがこのときばかりはとても貴重なことに思え、僕は掴んだ手を離す。
「……よ、かっ………」
 思わず呟き長い息を吐き、全身の力が抜けて俯いた。ああ、
 ――何が良かったんだ?
「―――っ!」
 僕は自分が大きく安堵していたことに気がつき、そんな自分に強くおののいた。僕は僕をコケにしたこいつを見返さなければならないはずで、真っ向からの実力勝負で完全に打ち負かしてやらねばならないはずで、当然その行き着く先にはこいつの死体が転がっているはずだ。当たり前だ、それは絶対に当たり前の話で、故に僕はこいつが死のうがこいつを殺そうがかまいやしないのだ。
 だから、生きてて良かったなんてことは絶対にない。生きているのが良いことならば、死は悪になってしまう。僕はそれだけは認めない。
 アベリオンが不審そうな顔で僕をじっと見つめている。僕は目を逸らした。


 その日も相変わらず無駄な一日だった。以前の約束を果たすといってアベリオンが眼鏡巫女の遺跡調査についていくのは別にいいのだが、何故かそれに僕まで付き合わされる話になっていて、しかも僕はそれを今朝に初めて聞いて、まずはそこで軽く口論となった。結局、まだ何か遺跡にあるかもしれないから、ということで(実際はもう飽きるほど調べ尽くしていてそんなものないなんてわかりきっていたのだけれど!)、久しぶりの遺跡探索のために道具屋に寄ると、今は鍛冶屋で修行しているはずの熊女が実家の手伝いをしていた。
「ありゃアベリオン、とシーフォン君。どうしたの?」
「よーネル。今日は修行はどうしたんだ?」
「んー、親方がちょっと腰痛めちゃってさ。今日は休業。ついでに今私は店を手伝いつつ薬を作っているところだよ」
「うえ、大丈夫かよ」
「ああ、もう神殿のお医者様に見てもらったし平気だよ。ただ本人があまりにも『俺は動ける!ナザリっ子の根性なめんじゃねえべらぼうめい!』とか言って働こうとするもんだから、まー気休め程度の痛み止めをだね」
「痛み止めより睡眠薬盛った方がいいんじゃねえの、それ」
「あはは、そーかも!」
 この女は魔力こそからっきしだが調合の腕はそれなりで、同じ師に習っていたというアベリオンより手際よく作っているように見えた。だがしかし今はそんな親方がどうのこうのの話は僕には関係ない。
「ツルハシとロープ、くれよ」
 僕抜きで楽しそうに話す二人(僕への攻撃として受け取っても構わないな?)の間に割って入り、そもそもここに来た用事を述べると、ネルがカブラ苔をすりつぶす手を止めこちらを振り仰いだ。
「何々?どっか探検でもするのかい?」
「テレージャのところにな、久々に遺跡もいいかと思ってよ」
 アベリオンが横から答えると、ネルは席を立ちながら大げさに反応した。
「ずるーい!いいなあ」
 何がいいのか僕にはわからないが、そう言いながら怪力女は後ろの棚からロープの束を取りカウンターに乗せ、そして立てかけてあるツルハシを2本片手でひっつかんで持ち上げそれをこちらに手渡そうとした。一本だけでも結構な重さなものを指だけで吊してみせるその姿が混沌の影響を如実に表している。念のため持っていくだけなので一本でいい、と伝えると、少しはサービスしてくれてもいいでしょ?とひと押ししてきたが、普通は店が客にサービスするものだろうとつっぱね、アベリオンがツルハシ1本ロープ1本分の金をカウンターに置くとおとなしく引き下がった。目当てのものが買えた時点で僕はさっさと店を出ようとしたのだが、アベリオンが今度は熊女の母親につかまり、やれ立派になっただの今の家は落ち着いたかだのネルはすっかり鍛冶屋が板についてきただのくだらない近所のおばはんトークを延々聞かされるハメになった。全くくだらない話のくせにおばはんとアベリオンは楽しそうに笑っていて、僕の知らない昔話で盛り上がっているのが不愉快極まりない。
「まーた拗ねてる」
 一人で横に座っていると後ろから声がかけられた。拗ねてない、と反射的に振り向き怒鳴ると目の前にカゴが突き出された。薄いチェック模様の布が蓋からはみ出ているそれの中身は目で見ることは出来ないが、鼻先をかすめる肉の匂いから窺い知ることは容易だった。
「ネルお姉さんのサービスに感謝するといいと思うよ! ちなみにメニューはチキンサンドと野菜サンド、デザートはチョコパイでございます」
 真面目なのか不真面目なのかわかりにくいテンションでネルは僕に手持ちのものを押し付ける。今の今までしゃべくっていたはずのアベリオンが勢いよくこちらを振り向き、カゴの蓋を開き中身を覗き込んでから目を輝かせた。
「さっすがネル!」
 アベリオンが大げさに言うと熊女もわざとらしく胸を張り威張ってみせた。
「へへーん」
 しかし次の瞬間にはいつもどおりの気の抜けた調子に戻るあたりこの女はいまいちつかみ所がない。
「ま、実はあり合わせなんだけどね。ごめんよー手抜きで」
「んなこたねーって!マジありがとーな!」
 その様子をハタから見ていた僕に、前振りもなくネルが向き直った。
「シーフォン君、ちゃんと残さず食べてね?」
 何故だかわからないくらい楽しそうな顔で言うので(実際こいつはいつもこんなもんだったかもしれないが)、
「焦げた石が入ってなきゃ食ってやるよ」
 と言ってやると
「じゃあ全部食べてくれるということだ!」
 と脳天気に笑った。行ってらっしゃい、という母娘二人の声に見送られて僕たちは広場を離れた。

 街の北の遺跡に向かう通りはかつては探索者向けの露店が立ち並んでいたが、今は少し様相が違ってきている。遺跡調査団の雇われでもない探索者は今はもうほぼ絶滅していて、その代わりにホルムの街には観光客が少し入ってくるようになった。交易の中継地点として栄えたこの街の適応力はそれなりに高く、今はこの探索通りは観光通りとして整備され軒を連ねる店も巧みに対象とする客層を変えてきている。
 そしてここもそんな店の1つだった。
「よー、そこのお兄さん! ホルム名物、塩おにぎりはどーだい!? かの英雄もこれを食べて遺跡に巣くう古の皇帝を倒したといういわくの一品だよ!」
「俺の相棒はアップルパイですが何か」
「ばっかおめー、それじゃかっこつかないだろ」
 顔を上げれば嫌でも「ぱりすや」という間の抜けた看板が目に入る。ここをゆく人間は脱力感に包まれること請け合いだ。これではおにぎりでも格好はつかないと思う。
「いらっしゃいませー……あ、アベリオン! と、えーと、シーフォンさん!」
 店の裏から顔を出した小さな従業員が、こんにちは、と年齢にそぐわない丁寧さで深々と頭を下げる。知らない奴相手や知識を盗む相手にへりくだって内心馬鹿にするのは慣れたものだが、こういう中途半端な知り合い(しかも子どもだ)相手で、その上隣には素を知っている人間がいるという状況が一番やりづらく、僕は結局生返事をするにとどめる。一方この子どもが言葉も喋れない頃から知っているというアベリオンの方はぱっと笑みをほころばせ、パリスの妹の頭を撫でた。
「よっ、チュナ。今日は神殿じゃなくてこっちのお手伝いか?」
「うん。やっぱりパリス兄さん一人だと心配だし……」
「ははっ、そうだよなー!」
「チュナ、俺もうまともに働いてるだろうがよ……」
「うう、そうだけど、でもやっぱり心配なの!」
 僕は以前はパリスがシスコンなのだと思っていたが、今こうして妹が喋るようになったのを見て、妹も妹でブラコンなのだと考えを改めるようになった。貧乏人の孤児同士で血の繋がりもない赤の他人がする家族ごっこはひどく陳腐にも思えたが、別に血の繋がりがあるからといってあたたかい家庭とやらが必ず築けるわけもないことも知っているし、どちらにせよ自分にとってはなんら関係ないことだ。
「お前らはこれからどこ行くんだよ?」
 店の商品とおぼしき兜(しかしいかにも観光土産らしく、実用性はほぼなさそうだ)を磨きながらパリスが問う。
「あー、ちょっと遺跡に。そうだ、テレージャはもうこっち来たか?」
「ああ、調査団の奴らならもうこの時間ならとっくに働いてるぜ」
「うし、わかった。じゃーまたな、パリス」
「なんか一つぐらい買ってけよ」
「いや買うもんねーよ、飯も道具もネルんとこで調達したし」
「てめー少しはこっちも贔屓しろっての!」
「っだ、てててやめろ離せ離せ!」
 パリスがアベリオンの肩を右腕で抱き込むようにして引き寄せ、左手の握り拳で奴の頭をぐりぐりと突く。アベリオンが痛がる様を見るのは普段の恨みがある僕にとっては愉快なことで、馬鹿が馬鹿なことやってら、と笑っていると、子どものキンキン声が響く。
「兄さん!」
 鶴の一声とはこのことか、シスコンはその一言だけでうっ、と唸りアベリオンを離した。アベリオンが解放されたのはつまらないが、ガキ相手に何も言い返せないパリスは情けなくて面白い。
「ごめんねアベリオン」
「や、サンキューチュナ」
「お詫びにこれ持っていって!」
 私が握ったの、といってその子どもはぱりすや名物を差し出し、アベリオンの持つカゴの中に問答無用で素早く放り込んだ。
「おいチュナそれ売り物」
「うるさい」
 この兄貴本当なさけねーな。小さな店の小さな看板娘は兄を一喝した後僕たちを見上げて、にっこりと微笑んだ。
「気に入ったら次は買っていってね!」
 間違いなくこっちの方がやり手だ、と珍しく僕とアベリオンで意見が一致した。


 ヒカリゴケの灯す薄暗さ、地上より湿ってひんやりとした空気、土の匂いの中に混じる獣の匂い、どこからか響き渡る水滴の落ちる音。俗世から離れたそこはどことなく霊魂の還るところを想起させ、僕はここのそういう死に近いところが好きだったのだが、最近はお偉い学者様の手が入って洞窟の入口のあたりは完璧に整備されてしまい、壁に等間隔に吊られたランタンが道を明るく照らし足下が危ないところには手すりがつけられていた。つくづく学者連中とは気が合わないことを思い知り早くもやる気が失せてきたが、半ば惰性で足を動かしていると一団のキャンプがある開けた空洞に出た。エリマキトカゲのようなアホらしい格好をしたオッサンの隣、清らかさを主張する真っ白な服を身にまとう巫女が巫女らしくもなく手を土で汚して出土品を丁寧に刷毛で撫でているのを確認して僕たちは声をかける。
「テレージャ!」
 女はすぐに刷毛を脇に置き、代わりに眼鏡を顔にかける。中身は割とどうしようもない遺跡オタクのくせしてそういう細かいところの所作がいやに優美で、見ている側に生まれの違いとやらを実感させる。あからさまに身分を鼻にかけた奴は勿論気に入らないが(某薔薇騎士様みたいな奴は色々と突破しすぎていて問題外だが)、この女のように自然と振る舞うのもそれはそれで腹が立つ。貴族も、学院の賢者も、そういう奴ほど大体つまらないことを偉そうに言うのだ。
「君たち! 何だい、来てくれるなら前もって言ってくれれば歓迎も出来たのに」
 おいお前連絡もせずに無計画にここに来たのか。僕はじと目で思わずアベリオンを睨むが、アベリオンはこちらに一瞥もくれずテレージャに駆け寄った。
「わり−わりー」
 微塵も悪く思っていない様子で口だけの謝罪をするアベリオンに、テレージャは気を悪くする様子もなく、仕方ないね、と言って迎える。アベリオンに少し遅れて歩いてきた僕も側に寄るとにこやかに、けれど決してあざとくはない理知を湛えた笑みでもって応じられた。
「……随分発掘も進んだようだな?」
 かつての住居跡を慎重に丸で囲った白墨の印を見ながら僕は言った。
「ああ、大体の全容は把握したから、今は地図の細かい空白を埋めているところだね。大まかな外郭は君たちが記した地図をそのまま使わせてもらっているのだけれど……ああ、今取り出すからちょっと待っててくれ」
 テレージャが簡素な木机の下から取り出したのは以前僕たちが探索の時に使っていた地図だ。宮殿の先に巨大な遺跡を見つけたと思ったら黒いオベリスクに吸い込まれ、古代と現代を行き来する最中なんとか現在地を把握するために手描きで作ったもので、机すらない状況で描いたそれはところどころ破れていたが、この女はそれを僕らから譲り受け大事そうに保管していた。
「今はこの南東の部分に着手しているのだけれど、メモがないから何があったかわからなくてね……君たちが記憶している限りを教えてくれないか」
 半年の間古代都市に行っていました、なんて馬鹿げた話、自分がその体験者でもなければとても信じられない話だと思うのだが案外すんなりと受け止める馬鹿もいるもので、特にこの女はそれが顕著だった。オベリスクを介する時空の移動は、(腹立たしいことに)アベリオンがいないと出来ないとわかったテレージャは奴を拝みたおし、自身も一度古代都市へ連れて行ってもらったのだが、既に街のあちこちで暴れ回っていた僕たちは当然のごとくいっぱしのお尋ね者になっていて、まあ僕様は慣れたものだがこのお嬢様がとにかくそんなこと知らずにはしゃぎたおすものだからあっという間に警邏隊に見つかり這々の体で逃げたことがあって以来確かアベリオンはテレージャを連れてオベリスクに触れることはなかったはずだ。だからテレージャ自身、強烈な体験として残っているであろうものの、古代都市の地形を完璧に頭の中にインプットする余裕はなかったということだ。
「何故私はあのときもっと街を歩き回れなかったのか……アベリオン君も止めないでいてくれれば……いやいっそ警備に捕まっておけばもっとあちらにいられたかもしれないのに!」
「こいつ、置いて帰ってきたほうが良かったんじゃねーの」
「……ある意味そっちの方が幸せだったのかもな」
 呆れた目つきの僕たちをものともせず眼鏡女は古代の建築がどうのこうのと語り出したが、僕もアベリオンもそこのところには全く興味がない。僕は目の前の地図に目を落とした。
「南東……っていうと、アレか、船着き場とかあったところか」
「あー、奴隷のいたところか」
 現代に甦って人間たちを襲って回った夜種どもも、元を辿れば人間たちの家畜であったことは皮肉な話だ。手に余る力は容赦なく全てを無差別に傷付けて回る。
「お前もほんっと無駄なことしたよな。商人に渡した金貨の分、こっちに持って帰れば多少金になったかもしれねーってのに」
 アベリオンは怪力女が闘技場でかっさらった賞金を即座に奴隷商人に叩きつけたが、そもそもあの世界はあの胡散臭い巫女の言葉を借りるなら過去の皇帝が悪あがきで生み出した夢のようなものなのだ。延々と繰り返す悪夢はイレギュラーである僕たちによって少しは展開を変えたかもしれないが、やがて全てを無に帰す洪水が訪れ、そしてまた振り出しに戻る――。終わらない輪廻の中でかの奴隷たちもまた元通りになったはずで、結局は、タイタスという根源をタイタスに最も近い者が屠るまで続いたはずだ。
 冷静に考えればわかるはずなのに、わからない頭をしているわけでもないだろうに、こいつはそれを認めない。
「……別にいいだろ。金貨の1枚や2枚、今更いらねーよ」
 ただの幻によくもまあそこまで肩入れ出来るものだ。僕は時折、こいつのこういうところがひどく気に入らない。
「その金貨の1枚や2枚があればもう少し良い部屋に住めてたかもしれねーんですけど?」
「はあ?それとこれとは関係ないだろ」
「いーや、だいったいてめーはいつもくっだらねーことに金使いやがって……」
「君たち、痴話喧嘩もそこまでにしてくれたまえ」
「はあ!?」
「まあまあ。少し小腹も空いてきたことだし、軽く何か食べながら話そうか。その方が殺気立つこともないだろう。ああ、バイト君に何か買ってきてもらおうか……」
「――話の流れが納得いかないが。一応弁当ならあるから、いい」
 アベリオンがむくれながら簡潔に述べ、持ってきたバスケットを取り出した。
「おや。君たちが作ってきた……というわけではなさそうだね」
「ネルが作ってくれて……そうだよシーフォンてめー俺にばっか持たせやがって何様だコラ」
「僕様ですが何か? そもそも僕はお前に無理矢理連れてこられたんだからそんなの持つ義理はない」
「よーしわかったお前にやる飯はねえお前は泥水すすってろ」
「あ、てめっコラ待て寄越せこの!」
 カゴをこれみよがしに取り上げる奴からどうにか奪おうと手を伸ばすが、アベリオンは僕と反対側にカゴを傾けて抵抗する。この野郎死ね、と毒づくと、テレージャが下を向いて笑いを押し殺しているのが見えた。
「何がおかしいんだよ、コラ」
 自分が他人を馬鹿にする分にはいいが、他人に笑われるのは腹立たしい。伸ばす手を引き下げ女の方を睨むと、テレージャはいやいや、と緩く首を振った。
「すまない、気を害するつもりはなかったのだが――何、いつも通りの展開だなと思うと少しおかしくなってしまってね」
 チョコレートパイは私たちの中では高級品だったね、とテレージャは懐かしむように言った。そういえば僕とアベリオンの間では食べ物の取り合いも多かったわけだが、荷物に残った最後のチョコパイの所有権を僕たちが争う最中「喧嘩の種になるなら私が食べてしまおう」と言って漁夫の利を得たことがあったな、こいつは。
「ネル君は今日は何を作ってくれたんだい? せっかくだから見せておくれよ、私にも」
 テレージャはアベリオンの掲げるカゴを指して机の上に下ろすよう穏やかに頼んだ。それはすなわち僕の手の届くところにサンドイッチたちを置くことに他ならなかったが、アベリオンは逡巡した後ゆっくりと弁当を下ろし、蓋を開いた。最初っからそうすればいいんだよ馬鹿。
「おや、これは美味しそうだね。羨ましい」
 定型スペースにきっちりと収まっていたせいか、アベリオンが振り回したにも関わらず中身はほとんど乱れてはいなかった。器用な癖におおざっぱなところがあるネルは時折食品を焼け焦げた何かにすることもあったが、流石にこれにはそんな失敗物は入っておらず、綺麗な形のチキンサンドと野菜サンドが並んでいた。僕は自分に近い方のチキンサンドをおもむろに手に取り一口かじった。美味い。
「美味しいかい?」
 眼鏡女が問うた。何をくだらないことを聞くのか、と思うが、女がじっとこちらの目を見るものだから無視をするのも憚られて、僕は食べ物を口に含んだまま無言で頷く。
「ネルの料理はうめーよ」
 アベリオンがさも当たり前のことであるかのように述べ、野菜サンドに手を伸ばした。僕らがよくつるんでいた探索者の中で料理が出来るのはネルだけではなかったが(メロダークとフランは「出来る」には含めない、言うまでもないが)、アベリオンはいつもネルに食材を持っていって調理を頼んでいた。あの女も遺跡に行くだけでなく家の手伝いで忙しいこともあっただろうにいつも嫌な顔一つせず請け負っていて、だから僕も必然的にネルの作ったものを口にすることが多かった。ホルム流のあっさりとした素朴な味付けのサンドイッチはもはや馴染みの味だ。
「そうだね、自明のことだった。……ん、こっちのおにぎりもネル君が?」
「ああそれは、チュナに貰った」
「……パリス君のところか」
 テレージャはわずかに目を細めた。この女が異常なまでに遺跡を神聖視しているのは近しい者なら誰もが知ることだが、それを知りながらなおこいつの前で遺跡を金儲けの種だと公言してはばからないのがパリスだ。
「……観光客が増えてきているのはかなわないね、全く。私たちはホルムの代官にこれでもかというぐらい頭を下げて調査の許可をもらっているというのに、平気でその作業現場に入ってくる者がいてね、そのたびにご退散願うのは骨が折れることで……」
「へえ? 一般人には見せられないって? そいつぁたいそうな言い分だなぁ?」
 めぼしい稀書も残っていない遺跡なんぞに興味はなく、一般人が追い出されようと知ったことではないが、『知識』を平然と独占しようとする権力の姿勢は好きではない(僕だけが独占するのなら別にいいのだが)。力の独占はその他の力の抑圧に容易に繋がるのだ。テレージャは僕の言葉の含意をどれだけ適切に読み取れたか知らないが、つとめて冷静に切り返す。
「……勿論得られた知は最終的には世に還元するのが私たち学者の義務であるけれども、そのためにはまず入念に入念を重ねた調査が必要だというのが大前提だ。ただでさえここは遺跡の発見と同時に天変地異が重なったため混乱が生じ、不特定多数の者が異変解決の名目の元盗掘に精を出し多くの歴史的資料が散逸した状態にある。であるからして落ち着いた発掘が出来るようになった現在は……」
 大学の講義のような語り口に僕は煽ったことを若干後悔する。続きを聞かなくてもテレージャの言いたいことはわかるし、そして僕はそれを認めることはない。お偉方の綺麗事にはこちとら飽き飽きしているのだ。話がこれ以上長くなる前に適当に切ろうと僕は口を挟むタイミングを測るが、先に口を開いたのはアベリオンの方だった。ただし、僕の方を向いて。
「ていうかお前、そんなに魔王やりたいのかよ」
 おい。
「――ああ? 誰がそんな話したよ」
「いや、だって、やりたいんじゃねーの? 魔王シーフォンの事務所」
 こいつは何を勘違いしたのか、遺跡観光に難色を示すテレージャにケチをつけた理由を、僕がパリスの計画に乗りたいからだと考えたらしい。いや、別に、やりたくねーわけじゃねーけど、ていうかちょっとやってみたい気もしないこともないけど、それとこれとは今は関係ねえ!
「や、関係ねえよ! やりたくねーわけじゃねーけど、その、なんで今その話が出るんだよ!」
「……なんだいその魔王って」
 テレージャが毒気を抜かれた顔で聞いてくる。あまりにそいつがわけがわからないといった顔をしていたから僕もなんだか説明するのが馬鹿らしくなってしまった。が、隣のこいつはお構いなしに続けようとしたので、僕は止めに入った。
「あー、例のわくわく冒険ランド計画でな」
「アベリオン!」
 口を塞ごうとするが、伸ばした右手は手首を掴まれ、ならばと伸ばした左手は組み合わされる形で拒否される。ことこいつ相手に限った話ならば決して僕の腕力が及ばないわけではないはずだが、ぎりぎりのところで届かないのが尚のこと腹が立つ。結局そのままの姿勢でアベリオンがぺらぺらと喋ってくれやがったおかげでパリスの人を巻き込んだ計画はテレージャの知るところとなった。またけしからんなどといって烈火のごとく怒り狂うかと思ったが、僕の魔王プランは怒りを通り越して呆れを喚起したらしく(それはそれでむかつく反応だ)、テレージャは頭を抱えて息をついた。
「君たちの構想力には舌を巻くよ……。――が、くだらない構想は構想のままとどめておいてくれたまえ」
 別に、別にそこまでノリ気だったわけでは決してないけれど、僕だってくだらないとは思っているけれど、やるなと言われるとアレだな、やってやりたくなるな。今のところパリスの計画は資金不足や許可の不認可や調査団との兼ね合いで頓挫しているらしいが、今度ちょっくら協力してやろうか、とうっすら思う。
「しかし、まあ、なんだ。なんだかんだいって馴染んでいるね、シーフォン君も」
 何をもってしたら今のホルムの代官を脅せるか――などと不穏にも楽しい想像を巡らせているところで自分に水が向けられた。
「……馴染んでる?」
 何に、という疑問は口にする前に相手が答えた。
「ホルムと、そこの人間にね。私などは発掘が出来るならホルムに骨を埋めてもいい覚悟だが、そんな私よりも馴染んでいるようにも思えるよ」
 馴染む? ホルムに?
「――別に、そういう、わけじゃあ」
 狭苦しくもあたたかい、ベッドの中で寝るのが当たり前になった。何かを買うときに持ち運ぶ際の重さやかさばりを意識することが少なくなった。路銀のために金目の物を盗むことがなくなり、薬を調合する手際が良くなった。警備を気にして町中を歩くことはなくなり、その代わり知り合いに声をかけられるようになった。きっとこのあとはパリスの店に寄り、その後ネルにサンドイッチの箱を返しに行く、そんな日常が想像出来るようになった。
「悪くはないと思っているんだろう?そういうことさ」
 テレージャは自分の分のパンを頬張りながら簡潔にまとめた。失われし古代の魔術目当てでホルムに来る前の生活を思い返す。
「――ああ」
 悪くは、ない。それなりに、それなりに、楽しい、のかもしれない。
 だけど。
 僕は曖昧な相づちだけで口を閉ざした。横に座るアベリオンと一瞬だけ目があったが、やはり僕はすぐに目を逸らした。


 軽い昼飯を取ったあとは3人で遺跡を歩いて回った。大体がわかりきったことの確認で、やれここに何があっただのどうのこうの話し合う。壁の向こうに未開通な都市部がないかなど僕たちの記憶を辿るよう求められるが、それも結局は徒労に終わった。あからさまな無駄足に気分を悪くする僕を知ってか知らずか、テレージャが図書館に行こうか、と言い出した。廃墟の北東には古代の巻物や粘土板が多くそのままで残っている大図書館跡がある。かつてはその図書館の中に守護者が闊歩していたため相応の実力がないと危険な場所でもあったが、それも今は昔。守護者どもが仕えるべき主をなくした現在はそれらも塵芥と化し、ただの研究生でも図書館に行き来出来るようになっているという。通い慣れた道が平坦に均されていることに軽い違和感を覚えながら目的地へ向かい、到着するとやはり先回りしていた発掘メンバーが出迎える。
 随分明るくなったものだ、と感じた。ランタンの明かり頼りに何か有益なものはないかと探していた当時はこんな壁一面に明かりが灯されていることもなく、また中央に鎮座している大きな机もなかったため僕は地べたに座り込んで膝の上に巻物を置いて読み込んだ記憶がある。それがいまやこうだ。古代の探求の名の下に、闇は人々に追いやられてしまった。
 僕は、名状しがたい何かを覚える。不快、焦り、苛立ち、それらをごちゃ混ぜにして煮詰めて水で薄めたような感情だ。見慣れた闇がランタンの数の暴力によって侵食され霧散している。自分が善だ、と傲慢な顔をして暖色の光が廃墟の隅まで侵略し自分の領土としているところを見て僕は舌打ちする。何者をも白日の下に晒し、照らして暴く光が僕は好きではない。暗がりにこそその身を安心して佇ませることが出来るものもあるというのに。
 遺跡に久しぶりに入ったときからあった感覚がここに来て強まっていた。廃墟の図書館は自分にとって殊更見慣れた場所だったからというのもあるかもしれない。
「シーフォン君はあの後もしばらくはここに来ていたのかい?」
 テレージャが書架を愛しそうに撫でながら聞く。
「……ああ」
 このような本格的な調査などが始まる前に既に僕は一通りこの中をさらっていた。膨大な図書がどのように分類されているか一応は頭の中に入っているが、今やもうそれはここの調査者たちの共通知識だろう。
「アベリオン君は?」
 テレージャが反対の側に顔を向けた。話を振られたアベリオンは、答えようとして口を開きかけ、その刹那、僕と視線を交わす。
「……俺は、久しぶりだな」
 アベリオンはそう言った後ふらっと僕らのそばを離れた。整然と並ぶ本棚を興味深そうに眺め、しかしその前に立ち止まることはなく、本棚の奥へと消えていく。
「アベリオン君」
「ちょっと見てくる」
 振り返ることなくすたすたと去っていく奴を僕たちは黙って見送る。
「まあ、少しぐらいはいいか」
 テレージャがそう言って机の横の長椅子に腰をかけた。隣に座るよう僕にも席を勧める。僕はなるべくなら早く帰りたかったが、アベリオンが勝手にどこか行ってしまった現在やることもなく、仕方なしに促されるまま腰を下ろした。エンダを連れてきて洞窟の成り立ちについて教えてもらって、などのテレージャの遺跡話を僕は漫然と聞いていた。

 それから一刻あまり経とうとしてもアベリオンは一向に戻ってくる気配がなく、しびれをきらした僕は腰を上げて自分から奴を探しに出た。一番広い道を中心線として対称的に配置された書架の森に僕は踏みいり、見落とさないように左右に視線をやりながらゆっくりと進む。僕とテレージャがいたあたりは古代の文献の解読をする場でもあったためかなり明るかったが、奥まではランタンが設置されておらず、歩を進める毎に闇が勢力を取り戻していき僕の体に手を伸ばした。かつて人の手が入っていたことがよくわかる石畳と壁が僕のブーツの立てる音をはじき返し、しめやかな響きをもって鼓膜を震わせる。振り返れば学者達の灯す明かりがぼんやりと見え、あそこからそれなりに歩いてきたことがわかったが、それでもアベリオンの姿は認められなかった。アベリオン、とわずかに張った声でかの名を呼ぶが返事はない。廃墟の図書館の入口は一つだけであるから自分たちに黙って出て行けるわけもないのだが、あいつはまた書に没頭して自分が呼ばれたことにも気付いていないのだろうか、もしくは一つ上の階に上がっているのか。面倒だと一つ舌打ちしてもう一回呼ぼうとして、気付く。
 この大ホールの奥に部屋がある。
 在りし日は一般向けに解放されていたのであろうここは右手にも左手にも積み重ねられし知恵が鎮座していたが、勿論古代帝国の集積した知識全てが正直に堂々と並べられているわけもなかった。整然と列を成していた棚の秩序が段々と乱れていき、書架が一つの迷宮を形作るまでに入り組んだあたりを更に突き進んだ奥、崩れた書架の壁の向こうにそこはあった。それまで幾度となくここに足を運んでいた僕ですら、あの日あいつの後をつけるまでわからなかった場所だ。
 奴が二階であぐらをかきながら本をあさっている可能性はないでもない。しかし、僕は何故か僕の頭に浮かんだ光景が確信をもって真実だと言えた。あの狭苦しい部屋で一人佇む奴の後ろ姿だ。
 どうすべきか、と一瞬だけ戸惑う。けれど僕は足を動かす。テレージャたちとは反対側の、織りなす書架に住み着く薄暗がりへ体を滑り込ませた。

 (靴音が響く。静寂の中に響く音が強く自分の存在を主張する。これでは気付かれる、足音を忍ばせねばならない。明かりは消して薄闇の中、前を行く人物の掲げる灯を目印に慎重に追いかけねばならない。そして、何よりなさねばならないことは――)

 散乱する石版の欠片を思い切り蹴飛ばして僕は今にも崩れそうな壁を見つけ出す。指先から灯す淡い魔法の光を僕は周囲にかざし、あたりを見渡す。
 何千年もの昔から変わらないような顔をしている。遺跡のどこが自然の風化で、どこが僕の召喚した雷で傷付けられたところかぱっと見判別がつかない。そんなものはじめからなかったのだ、と言われれば、騙されてしまうかもしれない。

 (人体の何処に何を当てれば速やかに機能を停止できるか、もう一度頭の中で復習する。勿論相手はただの木偶の坊ではない、目標は常に動き続ける、であるからして地形をも利用して事を進めねばならない、僕なら絶対にできるはずだ――)

 どれくらい立ちつくしていただろうか。わざとらしく足音をたてて明かりをつけているというのに、目の前の空洞からは何の音沙汰もない。ひょっとしたら中は誰もいないのかもしれないという考えが一瞬だけよぎるが、すぐにそれを打ち消す。

 (奴は確かにこの中に入っていった。きっとあそこに『あれ』があるに違いない。ここまでの案内を労ってやろう)

 さて――(さて――)。

「――アベリオン」

 崩落間際とも思える壁の向こうに正方形の小部屋がある。目的の人物はその部屋の中心で、水晶板を見下ろしていた。
 後ろ姿がぴたりと記憶に重なった。
 けれど同時に、あのときの僕の記憶がはっきりと今と解離していることに、気付いてしまった。
「――おう」
 アベリオンが短く答えた。(力尽くで奪わねばならない)かつてその手にあった『鍵の書』は今は奴が持つことはない当たり前だ、けれどもしあった場合は僕は再び杖をこいつに向けるのか(ここまでそうやって生きてきたんだ、それが正しいと僕が決めたことなのだ)、向けられるのか(杖を向けねばならない、なぜならそうやって僕はずっと生きてきたのだから!)。
「やっぱ何もねーな。ジジイが他になんか残してねーかと思ったんだけどよ」
 アベリオンが狭い部屋を見渡して何でもないことのように述べた。そうだこいつは『鍵の書』の力そのものより師匠の形見ということに固執するような馬鹿で、誰よりも大きな力をその手に持つくせして時にそれをゴミのように扱うことが僕には許せなくて、僕の信条を真っ向から否定されているようで、ああでも、今の僕は僕に準じていると言えるのか?
「……お前、『鍵の書』はどこにやったんだ」
 口にしてはじめて、それがアーガデウムから降りてきてから今まで一度も発していなかった問いであることに気付いた。僕はこの田舎町で他に得るものがないにもかかわらず一番大きな獲物を求めることをしていなかったのだ。この場所が、ここに残る記憶が、僕を無意識に責め立てる。
 教えてくれ、と思った。素直に教えてくれれば、渡してくれれば、それでいいのだから。
「……おしえねー」
 (だけどそんなことになりはしないとわかっていた、だから)

 だから、どうすればいいのか。

 アベリオンは短く言い放ったあと、僕の隣をすれ違って帰路を歩み始めた。すれ違いざま、ただ固まっていて何もすることが出来なかった自分に気づく。
 アベリオンが照明代わりに掌に強い炎を灯した。傲慢な光が僕と闇を照らしだし、僕は後ろに真っ黒な影を引きずった。



 夢を見る。一面の闇と痺れた感覚から始まる、あの夢だ。死体が一つ転がっている。
「………」
 顔はやはりうつぶせだ。わからない。どちらの死体か、わからない。
「近寄らないのか」
 有象無象の一人が背中から声を投げかける。お前らはいつだってわかったような口をして、無責任に言葉を投げつけるんだ。
 近寄らない。近寄れない。
「何故だ」
 何故? 何故って、それは。アベリオンだったら、僕は。
「じゃああいつだったら?」
 あいつだったら。あいつだったら、僕は、僕は、悪くない。
「どうして」
 どうしてって。だって力は絶対だ。力を信奉する者同士、己の力をぶつけあって死ぬことは悪いことでも何でもない。弱いことが罪なのだ。僕は勝者だ、だから悪くない。
「だったら」
 うるさい、うるさい黙れ。
「だったらどっちの死体でもいいだろう」
 僕は弾けるように振り返った。
「どうせお前は、もう戻れないんだから」
 有象無象だと思っていた声はたった一人、僕の顔をしていた。



「――おい、起きろ!」
 肩を強く揺すぶられる衝撃で目が覚める。目の前には色素の欠けた白い肌と髪があり、真っ赤な瞳が僕を捉えていた。
「……っ!」
 思わず僕は手を払いのけ後ずさる。肩に残る熱が、生きている証が、これ以上なく気持ち悪く思えた。
 アベリオンは僕を訝しげに睨み付ける。ケンカなら寝起きだって買ってみせるが、どうも相手はそういうつもりではないらしい。
「……大丈夫かよ」
 ぶっきらぼうに投げつけられた言葉はわずかに気遣わしげな声色を含んでいて、それがまた鋭敏になった僕の神経に障る。普通は起き抜けにかけられる言葉ではないそれは、一つの可能性を示唆していた。
「………僕は……」
「……うなされてたから。起こした」
 やはり、という思いが溜息となって漏れる。元々あの類の夢を見たのは初めてではない。死体が一つ転がっている夢だ。
 いつからあの死体の顔がわからなくなっただろうか。
「………」
 僕はベッドの中で膝を立てて顔をそこに押し付ける。額の湿り気が布団に吸われる感覚で僕は寝汗をかいていたことを知る。ああ、最悪の気分だ。
 うつむいたままぴくりとも動かない僕の前でアベリオンが所在なさそうに佇んでいる。と、前に立つ気配から察するが、実際のところどんな顔をしているのかは知らない。顔を合わせたくないので頑なに僕は膝から額を離さない。
「………気分が悪い」
 最悪だ。だから、どこかへ行ってくれ。言外に込められた思いは、しかし届くことなく、アベリオンは会話を続けようとする。
「……どこか体の調子が悪いのか」
 そういうのじゃないことくらい見てわかるだろうわかれよ。僕はしかして沈黙を選択する。元々短気なこいつは反応がなければそのうち消えるだろう。だがこいつは予想に反して僕の前から立ち去ることなく、あまつさえ僕の頭をひっつかんで無理矢理起こした。血の色をした瞳と目が合い僕は情けないことに動揺し、その隙にアベリオンは僕の額に手を置いた。伝わる温度が侵食する感覚がこの上なく不快だった。
「――離せっ!」
 寄るな。明確な拒絶を表して今度こそ奴を立ち退かせようとするが、それでもアベリオンはやり場のない右手を宙に固定したままこちらをじっと見下ろしていた。くそ、何なんだよお前さっさとどこかに行けよ行っちまえ僕のそばに近寄るなお願いだから。
「……熱はねぇみたいだな。落ち着いたら飯食えよ」
 奴はそれだけ言ってあっさりと身を翻し机の方へ戻っていった。僕はアベリオンに気付かれないだけの小さな息を吐き、再び膝に顔を寄せた。
 伝わる熱で身がじくじくと溶かされるような感覚だけが残っていた。

 家にいることが少なくなった。何かと用をつけては町中へと消えていく。本が読みたいときには昼は川縁に座り夜はどこぞの店で過ごした。知り合いと出くわす可能性の高い広場や大通りは避け、入り組んだ路地裏を移動に使うようになった。太陽の光を庇が遮る細道は薄暗さが心地よく、今まで自分が焼け付く日の光の下で行動していたのが不思議なように思えた。
 極力アベリオンとは顔を合わせないようにした。奴は相変わらずむかつく物言いばかりだったが、そもそもの口を利く回数を減らせば自然と衝突の数も減った。遅くに帰ってくると何をしていたのか聞かれ、関係ないだろと言ってやると格別に不満そうな顔をしたが、それ以上追求されることもなかった。これでいいのだ、と誰に聞かせるでもなく僕は独りごちる。
 ケンカと議論に使う時間を本に費やしたらあっという間に読むものがなくなった。今まで自分はなんという時間の浪費をしていたのだろう。ここで得られる力はもうない。それがわかったら、次に起こす行動は一つのはずだ。何故自分はそれをずっと先送りにしていたのだろうか。
 残していた金目のものを売り払った。保存の利く食品を買い込み、衣服の整理をした。



 夢を見る。杖を振りかざした僕の目の前で倒れている人間が居る。心臓を右手で鷲掴みにしながら苦悶の表情を浮かべているそいつは昨日まで動いていた。今はもう動かない。僕の周りに次々と人が現れては消えていく。

「おまえが」「どうしてこんなことを」「退学だ」「馬鹿なことを」「よくもあいつを」「取り返しがつかない」「調子にのりすぎた」「本家になんて言えばいいのか」「こんなものか」「絶対に許さない」「わかっているのか」「事故なのか」「もう駄目だな」

 そして僕は。

「――ごめんなさい」



 まだ夜も明けきらぬ暁暗のなか僕は音を殺してベッドを降りる。既にぼろぼろとなっている木が軋む音が部屋の静謐を裂き僕は一瞬だけ身を固めたが、深い眠りの底にいる同居人は起きる気配もなく安堵する。路銀と干し肉と乾パンを詰め込んだ鞄を取り出し、昨夜のうちにまとめておいた服を更にその中に詰め込む。次に僕は狭苦しい寝室の半分を占める本棚とその前の本の塔を眺めた。特に気に入ったものと、売れそうなものだけ持っていって後は置いて行こう。積んである本を慎重に倒さないように崩し、下の方にあるものを取り出した。この大量の書の半分はアベリオンが揃えたもので、その中でも遺跡から持ってきたものなどはそれなりのところへ持っていけばそれなりの値で売れそうなものがあったが、僕は奴のものは手に取りはしなかった。
 支度は思っていたよりも早く終わった。元より自分が持っていたものなど大してありはしないのだから考えれば当然のことなのだろう。部屋の隅にかけてあった外套を羽織り、焦点具を左手で取り、鞄を肩にかけ、玄関に一歩踏み出した。
 そのとき。
「――何処に行くんだよ」
 なんだってお前は、いつもは梃子でも起きない癖に、こんなときだけ。振り向くとそこにはベッドの上からこちらをあらん限りの力で睨み付けるアベリオンがいて、僕は咄嗟に同じように奴を睨みかえすが言い返す言葉を持たなかった。
「…………」
 何処に、なんてしっかりと決めてはいない。ただ東の方、僕が行ったことのないところであれば僕の知らない力があるはずだし、別に西へ行ってもそれはそれで神殿から隠れ住む魔術師たちの結社を探し当て潜り込めばまた新しい発見が出来るかもしれない。何処でもいい、アベリオン、お前がいないところであれば。
「……何処行くって聞いてんだよ」
 アベリオンが寝台から飛び降り一目散にこちらへ歩み寄る。頑として口を開かない僕に痺れを切らした奴が僕の胸ぐらをひっつかんだ。思わず僕はその手首を掴んで抗議する。
「離せ」
「答えろ」
 奴の問いに答えない限り解放する気はないらしい。紅の目が僕を無言で責めてくることがひどく腹立たしかった。何故お前にそう責められねばならないんだ。怒りはしかし素直に表に出ることはなく、僕の中で捻れた処理が加えられ、結果酷薄な笑みと化した。
「何処だっていいだろ。お前に関係あるか?」
 はっ、と鼻で笑うことも忘れずに相手を挑発する。これで関係ねえ出てけと言われればいい、そう思っていた。
「関係ある」
 しかしこいつはとことん腹の立つ奴で、何に付けても僕の意図したとおりに決して動かない。勝負をすれば命を助けられるし、出ていこうとすれば止められるし、くそ、何なんだよお前。
「てめえ、どうしたんだよ。最近妙に俺のこと避けるし、俺だけじゃなくて他の奴らも近頃話してないっていうし、あんまり寝れてもねえみたいだし、そのあげくにこれかよ。……何なんだよ、お前」
 胸裏の僕の台詞と全く同じ言葉を吐いて奴は僕にくってかかる。何なんだよお前、それは全くこっちの台詞だ。どうしようもない苛立ちが僕の心を支配し頭が煮えはじめた。
「……なんだっていいだろう。とにかく僕は出ていく。手を離せ」
「嫌だ」
「……っ、ふざけんな!」
「ふざけてんのはそっちだろーが! んだよ文句があるなら直接言えよ、黙って出ていこうとかすんじゃねー!」
「黙って出てこうがどうしようが僕様の勝手だってんだお前に指図される筋合いはない! いいから手ぇ離せっていってんだろーが!」
「勝手じゃねーよふざっけんな死ね! 誰が離すかバーカ!」
「お前が死ね! とりあえず死ね! 何はともあれ死ね!」
 双方頭に血が上った状態でまともな話し合いになどなるわけもなく案の定いつもどおりの罵り合いに移行する。そのいつもどおりの流れがいつもよりずっと疎ましい。
「こんな田舎町に留まってたってもう何も得るものなんかねーんだよ! お前はここで枯れた一生を送ればいい、僕は力を手に入れるんだ!」
 力を求める道こそが僕の進むべき道だ。僕はお前とは違う、そして僕が知識有る者としての正しい姿なのだ。
「逃げるのかよ」
 だがどこまでも僕と真っ向から対立するこいつは、僕の道を真っ正面から切り捨てる。
「お前、俺から逃げるのか」
 逃げるのか、という言葉が脳味噌の細胞に雷をうち僕は一瞬だけ固まった。僕は逃げているんじゃない追い求めているのだ――古代の知識を解き明かし魂を解放して真理を得るその瞬間の大いなる喜びを求めて僕は旅立つのだ、決して瞼の裏の闇から逃げているわけではない、それをどうやってこいつに納得させてやろうかと僕は思考を巡らせ、そして――。
「――なら、勝負しろ」
 単純な話だった。逃げるのではない、と証明するためには、立ち向かえばいいだけのことだ。
「僕と術比べといこうじゃないか。僕がお前に勝ったらお前は『鍵の書』を僕に渡す」
 ホルムの町に残されている唯一の僕が得ていない知識、それはこいつの持つ『鍵の書』だった。そうだ、好都合じゃないか、邪魔する奴を叩きのめしてそのうえ力まで手に入れることができるのだ。これ以上のことがあるだろうか、いやない。
「遠慮なしの真剣勝負だ。容赦もしない。そして『鍵の書』を手に入れたら僕はお前を殺す」
 禍根は断つべきであるからして、奪うものを奪ったら殺すべきなのは当然だ。どうせ一人も二人ももう変わらない。
 アベリオンはじっと僕を見つめていた。時間にしたら何秒もなかったかもしれないが、視線を交わしている間が途方もなく長く感じられた。
 やがて奴はわずかに顔を俯かせる。
「いいぜ」
 アベリオンが僕の提案にのったこと自体は驚くようなことでもなかった。元々これまでも何回も命がけの勝負はしている。ただしその度にこいつが人を愚弄し、僕を助けただけの話であって、何かが違っていたら僕がこいつを殺していたのはあり得た話なのだ。
「お前が勝ったら『鍵の書』はくれてやる。俺の命も好きにしろ。ただし――」
 ただし、のあとに続く言葉を予想するならば、俺が勝ったら出ていくなとか『鍵の書』は諦めろだとかだろうな、と僕は思った。しかし、続いた言葉はそのどれとも違っていた。
「俺が勝ったら、お前の命は俺の好きにさせてもらう」
 アベリオンの声はひどく冷静だった。それ故に覚悟が伝わった。奴は僕が殺すといったのを了解し、そして、立場が逆の場合は結果も逆になることを突きつけたのだ。
 予想外でなかったといえば嘘になる。けれどもそれより僕はその言葉に、ほんの少しの痛みと、それを大きく上回る歓喜を感じていた。
「はっ……ははっ! そうだよな! そう来なくちゃな!」
 そうだ、こいつは認めたのだ――力を得る方法を、そして力を得るためには何物をも犠牲にして構わないことを、僕の信ずる道を肯定したのだ! 今まで散々人のやり方を否定してくれてきたこいつがついに僕の正しさを認めたのだと思うと感慨深く、心の底から喜びが湧き上がる。この意味ではある種こいつが僕に敗北したも同然だ――僕はアベリオンを同じ土俵に引きずり下ろしたことに嬉しさを隠せず、隠そうともしなかった。
「そうだ、それでいいんだ、何だよ案外お前も話がわかるやつだな。じゃあ早速やろうぜ――ああ、その前に『鍵の書』があるところに案内しろよ、先にお前が死んだら困るからな、賭け分はきっちり事前に出してくれないとな」
 興奮して一気にまくし立てる僕をアベリオンはどこか冷えた瞳で見ていて、それが僕には気に入らなかったが、ついてこい、と奴が端的に述べて焦点具を手にしたことでそれくらいどうでもよくなった。僕はこいつと殺しあいをし、念願の力を手に入れるのだ。
 杖をぎゅっと握りしめた。かすかな指の震えは武者震いだと自分に言い聞かせた。



 東の空が刻々と黒から紫に移り変わりつつあるが、町の大部分は未だ寝静まったままで、北へ移動する僕とアベリオンが誰かとすれ違うことはなかった。パリスが店を出している通りを抜け、このまま遺跡に入るのかと思われたが、直前で奴は道を外れて森の中へ入っていった。ちょっとすると木々が途切れ、わりに広い野原に出て、アベリオンは古そうな切り株の内の一つに近寄った。
「ここの下に『鍵の書』がある」
 薄闇の中よく目を凝らすと生い茂った雑草の中にかすかに光を反射するものが見える。どうやら何かの硬貨のようだ。
「今掘り返すか?」
 アベリオンが聞いてきた。僕は首を横に振った。
「いや、いい」
 こいつの性格からして嘘はついていないだろう。わざわざ目印を置いたダミーを作るほど用意周到なやつでもない。それよりも僕は早く勝負を始めたかった。
「……わかった」
 アベリオンが焦点具を構えた。アベリオンの手に収まることによってはじめて真の姿を現すそれは<上霊>という名で、物質であると同時にあらゆる知識と理の権化であり、この世界の真理を知るものであった。<上霊>は同じ境地に至った者だけが扱い方を心得るらしい。アベリオンが『鍵の書』を読み、その秘儀を体得した証だった。
 文字通り器が違うのだ、と改めて思う。忌々しくてたまらないが僕はそこだけは認めなくてはならない。今自分の目の前にいる相手は、かの魔術の創始者、神々と古代種族の知恵の継承者兼支配者、現代の魔術師全ての師であり祖であり、力によって全てを掌中に収めた、古代アルケア帝国の始祖タイタス1世の器なのだ。あの怪力女がいくら渇望しても魔女になれなかったように、人がその身に持てる魔力はほとんどが生まれたときに決められていて、その定めの前では努力などほとんど徒労である。僕はその点において自身が非常に他者より優れていることを知っていて、大学で偉そうに理屈をこねている教授も、年次だけで偉ぶっている馬鹿な先輩も、全てが全て僕より劣っているのを見下していた。それが今、見下される側にいることが、屈辱以外の何物でもない。
 ホルムという田舎町で人知れず磨かれていた原石は、遺跡探索というカッティングを経て霊妙な宝石へと姿を変えた。僕はこいつが遺跡の深くへ潜るほどその身に宿る魔力の解放のしかたを覚えていき――いや、『思い出していき』か?――、ただの初心者用の炎術すらこいつが使えば地獄の業火になる様を目の当たりにした。ただ純粋なその力に僕は不覚ながら目を奪われることも多々あり、だからこそ、こいつが時折『力』を軽く見るような言動をすることが許せなかった。『死者の書』もそうだ、別にいらねーし、という一言でこいつは僕に投げて寄越したし、自分だけが扱える奇跡の秘石をためらいもなく泉に投げ込んだし、何よりかの皇帝に約束された力をこいつは一蹴してみせたのだ。その様は勝者の余裕のようで、また、僕へのあてつけでもあるようで、僕はアベリオンが憎かったのだ。
 証明せねばならない。今度こそ、力が全てであることをこいつに思い知らせてやらねばならない。僕が僕であるために、勝たねばならないのだ。
「――来いよ」
 アベリオンが言った。僕は、杖を向けた。



 焦点具を握りしめ、己の身の内にある魔力を解放する。肉体の打撃を防御するには鉄の鎧が必要だが、魔力には魔力の鎧で対抗せねばならない。僕はありったけの力でもって身体に魔力の障壁を纏うが、それでも目の前の相手の鎧には敵わないことが見て取れた。しかし焦ることはない。僕は無言で身体で変換した魔力を杖に込めた。おもむろに杖を放すと、杖が意思を持って動き始め、先端から漏れる光が円と三角と古代文字から成る図形を描いた。
「……っ!」
 アベリオンが険しい顔をするのを僕は満足して見やる。失われし知識の一つでもあるこの魔方陣は己の魔力を込めた杖で描くことによって一時的に使用者の魔力を一瞬で倍近くまで高めることが出来る。これならば僕が相手にひけを取ることもない。アベリオンは宇宙に満ちたエーテルに助力を請う呪文を詠唱するが、僕の無音詠唱に比べればそれは余計な時間がかかるうえに効果も薄いちっぽけなものだ。
「ひゃははっ、いくぜコラ!」
 これなら僕が先手を取れる。出し惜しみはしない、最初から全力でいかせてもらう。僕は僕の知る最も強く最も偉大な魔術の呪文を唱えはじめる。
「夜よ、奈落よ、根の国に坐す囚われし神よ。御手の大剣を此処に差し出せ、全ての種を此処に薙げ!」
 冥府の支配者ミルドラに力を寄越せと命じて腕を高らかとあげれば、喚び出しに応えた巨大な魔剣が空間を裂いて出現した。刀身から柄までの全てが漆黒の、威厳ある光沢を放つそれは神が使役する蛇の化身であり、あらゆる命を否定する死の剣だった。
「死ねやクソがァッ!」
 アベリオンを指さして勢いよく腕を振り下ろす僕の動きと同期して、魔剣がまっすぐにアベリオンに向かっていった。奴は咄嗟に魔力を正面に集め障壁を象ったが、僕の剣はそんな些細な抵抗をものともすることなく魔の盾を貫きあいつを彼方まで吹っ飛ばした。
「ぐあっ!」
 巨大な力で押しつぶされることだけは回避した野郎であったが、それでも木に激突して汚いネズミのような声をあげて地に倒れ伏した。僕は抑えきれない衝動とともに、笑い、叫ぶ。
「ははっ、ははははは! おいアベリオン、お前の力はそんなものか!?」
 服と髪の間に覗くあの白い首を真っ二つにするイメージを固め、僕は更なる呪文を唱えようと魔力を引き出す。反撃を許さず仕留める算段だった。
「……っ!?」
 が、僕の持つ杖が大きく下に引きずられ、つられて詠唱が中断する。見れば、地面から尋常じゃない太さの木の根が猛烈な勢いで襲いかかってきており、僕の杖と足が逃げる間もなく絡め取られた。しまった、油断していた。あいつは焦点具を手放していない。
「あんま調子のんじゃねーぞ、シーフォン!」
 魔の木を使役する詠唱を終えたとおぼしきアベリオンががばっと顔を上げ立ち上がった。その顔は苦痛で歪んでいるが、まるで闘志は失われていなかった。今何かされたら逃げることもできずにまともにくらってしまう。追撃される前に根を枯らせようとして僕は魔界の空気を呼び寄せるが、アベリオンは元から時間稼ぎのつもりだったらしく、僕が手間取っている間に自分の身体に治癒術を施し、そしてエーテルを呼び寄せ己の魔力を限界まで高めていた。くそ、馬鹿みたいな力しやがってどこまで底上げできるんだよ化け物かお前はああそんなようなものだったな!
 僕が何とか根から脱出したと同時に、奴はまた別の詠唱を始めた。聞き覚えのあるフレーズに僕は身を固める。あれは威力の割に文言が段違いに短い、詠唱の邪魔はできない、発動してしまう。全身に魔力を纏い、耐性をつけるが、どこまで効果があるかわからない。
「風よ、集えよ、荒ぶれよ!」
 奴が叫ぶと同時に僕の周りに突風が吹き荒れた。まるでこの世のありとあらゆるところから風が吹き込むような錯覚を起こさせるこの魔術は特にアベリオンの得意なものだ。僕自身くらったのはこれが初めてではない。廃墟の負け戦が一瞬頭をよぎるが、そんな思い出に浸っていられるほどの余裕もなかった。猛烈な勢いに呼吸も出来ず、目も開けられない。踏ん張っていた足がよろめき、同時に風の刃が頬を裂く。魔力の抵抗がなければ喉元をかき切られていただろう。吹き飛ばされないように嵐に抵抗した僕は、大地にへばりつくことに成功したはいいものの、激しい風の中で口を開くことも出来ずにいた。その隙を縫って奴は畳み掛けるように詠唱する。目を開けられずとも魔力の流れは感じられるが、暴風で耳が利かず相手の次の魔法がわからない。やばい。
「銀河を彷徨う迷い子よ、かくて此処が汝の終着地である!」
 風がようやく止むと同時に、呪文の締めが僕の鼓膜に届く。どこからか出現した巨石――あれは、星だ――が、僕めがけて墜落してくる。僕はその勢いをなんとか殺そうとするが、対処は間に合うことなくまともにくらい弾き飛ばされる。考える頭と詠唱する口はなんとか守ったが、肋骨あたりがぎりぎりと痛み少し動いただけで悲鳴をあげる。イったかこれは。
「――の、やろう」
 しかしまだ終わってはいない。口と焦点具さえあればどうにかできるのが僕ら呪文使いだ。それはアベリオンもわかっているのだろう、手を緩める気配は微塵もない。僕が口を動かすと同時に相手も呪文を唱えはじめる。基本的な詠唱の早さは僕の方が上のはずだが、喚ぶものにもよる。早撃ちだ。
「ラーヤよ、太陽の化身よ、一筋の光を放てよ、一切の熱を其処に込めよ!」
 忌々しいことに奴の方が早かった。熱魔法もアベリオンが得意とするところだった。夜も明けきらぬ空から音もなく熱線が出たと思ったら消えた。気付いたらこの森と僕を薙ぎ払っていた。木々が煙を上げ、僕の服が炎を噴き上げる。自分の肌の焼ける臭いが鼻をついた。
 それでも僕が詠唱をやめることはなかったのはひとえに意地のなせる業だったと言っていい。
「確たる、断固たる、強靱たる、意思よ。力をもって存在を示すがいい!」
 風でも炎でもなく、僕の信ずるところ、死と力。それははっきりと目に見えるものではないかもしれないが、僕の世界を支配するたった二つの要素だ。純粋な『力』がアベリオンを襲った。それは目に見えぬが故に目に頼る者は防御しようがない力だ。アベリオンの腕が不自然な方向に曲がる。腕だけじゃない、この力は内部まで破壊するはずだ。奴が苦しそうにうめき、咳き込む。
 チャンスだ。僕は再び屠りの剣を召喚する呪文を唱えはじめる。身を焦がす炎に構ってなどいられない。一々長い要請の儀式を要求するミルドラに僕は内心悪態をつきながら、アベリオンの様子をつぶさに観察し、対抗する呪文を唱えていないか様子を伺う。けれどもあいつは肺をやられたのか、呼吸すらもままならない様子で、魔術師の生命線である言の葉も操れないようで、悪態の一つもつくことなく苦しみながら僕を眼光鋭く睨んだ。

 胸を右手で鷲掴みにしながら、苦悶の表情を浮かべていた。

 呪文の詠唱は終えた。僕の真上に、再びあの死の剣が姿を見せる。死によって断たれぬ物はない。僕が右手を振り下ろせば、死が、何もかもを断ち切ってくれる。
 あの日の死の場面が一気に鮮明に頭によみがえった。馬鹿どもばかりの大学であいつだけはまだ比較的マシな馬鹿だと思っていた、僕が結社に入ったあとも付き合いは変わらなかった、いつも昼飯を一緒に食べていた、お互い好奇心が強くて学んだことはすぐに試してみたがるタチだった、だから――。
 死が、何もかもを、断ち切ってしまったのだ。


 しっかりと右腕を振り下ろしたはずだった。命に飢えた魔剣はそうでなくとも目の前の魔に満ちた極上の獲物に襲いかかるはずだった。だけれど、眼前の光景は予想された結果とまったく食い違っていた。
 黒い大理石を思わせる剣は、木々をなぎ倒し地面に深々と突き刺さっていた。アベリオンは自分の背後を見やって目を見開いている。やがて喚び出された用を終えたと認識した剣は無数の黒い蛇に姿を変え、影を這い闇に消えた。
 何が起こっているのかわからなかった。不完全な肉体が操る剣とは違う、完全なるイデアに直接働きかけて概念たる言葉によってそれを再現する魔術は限りなく完全に近く、まずもって目標から外れるなんてことは有り得ないのだ。術者が命ずるとおりに命ずる場所に必ず現れるのが魔術なのだ。詠唱を終えた時点で命令から外れることは有り得ない。
 ならば、これが僕の命じた結果なのか。
 足元が大きく揺らいだ。僕の寄辺の根幹にどうしようもないヒビが入った。あの日から必死で積み上げてきた、意地が、誇りが、生き様が、音を立てて崩れようとしていた。
 黒蛇たちを見送って、アベリオンがゆっくりとこちらを向いた。目があってしまい、逸らすこともできず、止まった時の中で見つめ合う。立ちつくしている暇があるならトドメを刺すべく何でもいいから唱えるべきだ、と頭の中で声がする。けれど、震える手が、動かない口が、渇いた喉奥が、熱い目頭が、全身がその命令を受諾しない!
「…………っ……!」
 どうしたらいいかわからなかった。どうしようもなかった。魔法使い魔法が使えなきゃただの人だ。力なく地に立て支えていただけの杖を握りなおし、持ち上げるが、それが今の僕に出来る精一杯の示威行為だった。もはやそんな行動がどれだけの効力を持っていたのかもわからない。
 アベリオンは黙って僕を見ていた。赤い目が僕の何もかもを見透かすようで、衝動的に逃げ出したい気持ちに駆られるが逃げるような場所なんてなかった。逃げなければ――誰から? 何から?
 やがて、ゆっくりとアベリオンが口を開いた。やはり奴は中をやられたらしく、口は動いても音の振動が空気を震わせることはなかった。無音の言葉を、しかし僕は、確かに聞き取った気がした。
 ――死ぬなよ。
 命がけの勝負に何を言ってるんだお前は、という台詞は今の僕が言っても何ら説得力を持たないに違いない。僕が反応できないでいる刹那、奴は傷付いた喉からたった一言、一言分だけ涸れた声を力尽くで絞り出した。
 それだけの言葉で奴は十分だったのだ。
「――歌え、真理よ」
 天空の彼方からの歌声が一瞬だけ届いたような気がした。しかし、次の瞬間には眼前を覆い尽くす光が僕を襲った。光は僕の体を呑み込み、意識を押し流す。全てが白となる。世界が出来る前の原初の光景がそこにあった。


 猛烈な頭の痛みとともに目を覚ます。あれだけの光を目に焼きつけたにもかかわらず今現在目が利くのはそれだけでも奇跡のように思えた。木々の合間から見える空は白んでいて、東は勿論西の方も光が支配しつつある。暁の空だ。
 どうやらまだ地獄ではないらしい、と悟る。仮にここが地獄だとしたらこんな気に障る空はしていないだろう。頭の他にも各所が痛む。死んでいたとしたらこんな身体の痛みともおさらばしていたろうに、と内心で毒づきながら体を起こすと、すぐ横にアベリオンが座っていた。僕は咄嗟に体を怯ませたが、アベリオンは動ずることなく僕を見つめる。
「……起きたか」
 起きたかって、何だよその起きるのを待っていたかのような反応は。僕は呆れと侮蔑との気持ちを込めて奴を睨むが、そこで改めて、気づく。
 ――僕はまた負けたのか。
 悔しかった。世界中の誰に負けるより、こいつに負けるのは我慢がならないことだった。アベリオンに負けるということは、アベリオンが正しいと証明されることで、すなわち僕が間違っているということになってしまう。それが何より認めがたかった。
 ――いや、否定したのは奴だったか?
 僕はまだ鮮明な記憶を呼び戻す。アベリオンが苦しく喘ぐ様を見て、それがあいつと重なって、そうだだから同じようにやろうとして、やればよかったのに、断ち切ろうとしたのに、出来なかった。僕は最後の最後で、死を拒否したのだ。
 僕を否定したのは僕だった。その事実に僕は戦慄し、絶望した。
「……殺せよ」
 殺せばいい。アベリオンが僕を殺しさえすれば、力の優れた者が劣った者を殺していいという理は保たれる。僕がこいつに負けたことは腹立たしいことこの上ないが、最悪その決まり事だけでも守られればまだ納得して逝ける気がした。何より、これ以上生きていれば、何故あそこでトドメを刺せなかったのか考えてしまう。その結論を、出してはいけない。
 けれど僕は、こいつがとことん人の嫌なことをやってくる奴だということを忘れていた。
「……その前に、聞きたいことがある」
 予感がした。やめろ、聞くな馬鹿。
「なんでお前、外したんだよ」
 何を、とは聞くまでもない。こっちがわざと考えないようにしていたことをどうしてつっつこうとするのか。こいつは本当に一回死ねばいいと思う。死ねよ、死んじまえ、どこか僕の知らない遠いところで死ねばいい。
「………」
 僕は沈黙を選択する。どうせ結果が全てだ、負けたことだけが事実だ。外したから外したんだ、それ以外にない。ないったらない。
 けれどアベリオンはそれでは到底納得しないようだった。奴はただじっと僕の言葉を待っている。僕はアベリオンの顔を見ないように地面を俯いて押し黙り、しばらく二人の間を重い沈黙が支配したが、やがて痺れを切らした奴が僕の手首を掴み引き寄せた。弾みで顔を思わず上げると、真っ直ぐに僕を見つめる瞳とかちあった。
「答えろよ」
 目を離せないのは、こいつの目が血の色をしているからだ。僕はかっと顔が熱くなるのを感じる。冥土に持っていこうとした感情が、堰を切って溢れ出す。
「……お、まえのせいだ」
 からからに渇いた喉を、情動が鞭打つ。
「お前が、アベリオン、お前さえいなければ僕は僕のままでいられたのに、お前はことあるごとに人のことを馬鹿にしやがって、ふざけるな大体なんだよ一緒にいろって僕はお前を倒すって言ってんだろうが、探索でもケンカしたあとに僕の応急手当とか勝手にしやがるし馬鹿なんじゃねーのか馬鹿だろお前、あげくの果てに殺しあいのあとに死ぬな生きろとか本当にわけがわかんねえ、つくづく人をコケにしやがる、ちくしょう、お前なんか大っ嫌いだ、嫌いだ、嫌いなはずなのに、ちくしょうわけわかんねえよなんでこうなっちまったんだよ、アベリオンお前のせいだ、お前のせいで僕は」
 自分でも整理がつかないまま吐き出した言葉はひどく乱雑でぐちゃぐちゃで、ただでさえ追いついていない頭が更に混乱を極めた。しまいには意味がわからないことを繰り返す自分がみっともなくなってしまい、僕は再び口を閉じて俯いた。アベリオンは僕が黙るまでただじっと反論することなく聞いていた。掴まれたままの手首が熱い、早く離せちくしょう。
「――おまえさ」
 アベリオンが小さく息をついた。
「馬鹿だろ」
 うるせえ、てめえにだけは言われたくねえ。けれども胸裏の声が表に出ることはない。もういい、どうせこれが最後だ、そしてもう僕を肯定出来ない僕に生きる道はない。
「いいから、早く、約束通りにしろ」
 最後の最後で自分が自分を裏切ってしまったことは到底許せることではなかった。その結果勝てる勝負にも負けてしまったことを、僕はきっと奈落に行っても悔いるだろう。
 だけど、ありとあらゆる自分の死に様を想定した中で、きっと一番マシなのはこいつに殺されることだ。僕に相応しい最期だと思う。今や僕の望むものはそれ以外になかった。
「……そうだな」
 アベリオンが言った。良かった、これでようやく終わることが出来る。地獄には誰がいるだろうか、あいつは多分いないだろうな、ああでも、僕を殺せば、アベリオンも後から来るだろうか。
 アベリオンが僕の手首を握る力を強くする。僕は僕を断ち切る力がどんな呪文か、最後まで聞こうとしていた。
 けれど次に続いた言葉は、風を喚ぶ魔でも、炎を喚ぶ文言でも、何らの術でもなかった。
「じゃあお前はこれから先一生俺の下僕だ!」
 …………………はあ?
 落としていた視線を上げてもう一度馬鹿の顔を見た。そいつは得意そうに、満足そうに僕を見下ろしていたが、僕はそれに腹を立てる余裕もなかった。何だって?
「俺より先に寝るな、俺より後に起きるな、飯は三食作れ、手早く食いたいから別に凝る必要はねえけどとりあえず用意から片付けまで全部お前な、掃除もしろよ、調合を俺にだけやらせてさぼってんのは論外だお前も働け、それから……」
「おい。おい待て」
 勝手な要望をずらずらと一気に並べ立てるアベリオンを僕は制止する。どういうことだ。想像とあまりに違う展開に頭がついていかない。
「何だよ、何言ってんだお前は」
 何を言ってるんだ。それはまるで、僕がこれからもお前と暮らすみたいじゃないか。
「だから、俺が勝ったから、お前は俺の下僕だって言ってんだよ」
 いけしゃあしゃあと答えるこいつに僕は徐々に普段と同じ感覚を取り戻していく。ああやっぱりこいつはどうしようもなく、むかつくな!
「……っんだよそれ! 何がどうしてそうなるんだ! お前僕を殺すんじゃなかったのか!」
 そうだ、僕はこいつを殺すと言った、だからこいつも僕を殺して然るべきで、こいつはそれを認めたはずなんだ。
「お前の命は俺が好きにするって言ったろ。別に殺すとは言ってねーよ」
 そうだったか? 僕は記憶を掘り返す。言われてみればそんな言い回しだった気もするが、いやでも、あの場面でそう言われたら殺すってことだと思うだろう普通。
「……っ、ざっけんなそんなのあるかよ!」
「てめーが勝手に勘違いしただけだろーが。お前の思い込みなんざしらねーよ。とにかくお前は今日から俺に一切逆らうなよ、なんたって下僕なんだからな」
 今日からいつまでだ、死ぬまでというのか、お前はまた僕に、生きろと言うのか。
「ふざけんな、馬鹿にするな、何だよそれ、殺せよ、僕が殺せって言ってるんだから殺せよ……!」
 お前はどこまでも僕を否定する。廃墟で鍵の書を奪おうとした僕を、後悔したくないからと言って手当てしたことを覚えている。殺したら後悔するべきだというのか、万が一後悔したとして、それで押しつぶされてしまったらどうするんだ生きるためにはそんなことで後悔などするべきではないのだ。アーガデウムでもお前は同じことをしたな、お前はその身に宿す莫大な力を決して殺すことに使わず、生かすことだけを考え、僕にすら生きろと言い、僕はそれが死の力を求める僕を真っ向から否定していると思った、ああなのに僕は言われるがままここまで生き延びて、今、お前が僕に僕を否定させた。
 楽しかったんだ。お前や他の奴らと遺跡に潜り、未知の領域に踏み込むときの緊張、キャンプを張って計画を練るときの高揚、貴重な呪術書を得たときの歓喜、ひばり亭に戻った後雑談するときの開放感。失われし知識を、力を求めて来たはずなのに、いつの間にか特に収穫がない日も不満は抱かないようになっていた。つるむこと自体が楽しくなっていて、僕は自分の心の中の大切な部分がぐずぐずと解けていくような感覚を抱いて、それが怖くなった。だからお前に勝負を仕掛けて、結局生きながらえてしまったものの異変は終わり、今度こそ元通りの生活に戻るかと思ったらお前に引き留められて、しかも気の狂った僕はそれを受けてしまい、何の因果かホルムで暮らしはじめてしまった。それが楽しかったんだから殊更どうしようもない。通りがかりに知り合いに声をかけられて立ち話をするなんて放浪生活では全くなかったことなんだ。商店で働くネルやパリスは勿論、他の店の人間とも顔馴染みになりつつある。薬を売ったら礼を言われた。僕が忌み嫌っていた神殿すら、お前と一緒に立ち寄ってエンダと話すことがある。そうだお前だ。家に帰るという言葉を久しぶりに口にしたときは戸惑ったのに、今やそれが当たり前になってしまった。帰ったら自分の他に誰かがいる。常に一緒に食事をする誰かがいる。お前はいつだって勝手で自己中でむかつく奴なのに、お前が側にいることが当然のことになり、何の疑問も抱かなくなってしまった。何気ないときに触れる肌があたたかくて、そして僕はそれを忌避しなくなって。
 僕の心の薄闇を、いつの間にか傲慢な光が侵食していた。僕が必死で隠そうとしているものを、こいつは容赦なく暴き立てる。
「お前は俺を殺さなかったじゃねーか」
 僕が目を背けたい事実を、どうしてこうもこいつは平然と前に突きだしてくるのだろう。僕は言い返す言葉を持たず、歯がみしながらアベリオンを睨みあげる。
「……大体、なんで俺がお前を殺さなくちゃなんねーんだよ」
 アベリオンはわずかに声のトーンを下げる。冷静に考えてみれば今まで散々人を馬鹿にしてきたこいつが今更僕を素直に殺すことなどないだろうと思えるが、あのときばかりはアベリオンが僕のルールを認めたと判断してしまったのだ。そう思いたかったのかもしれない。アーガデウムでのこいつの泣き顔を思い返せば、アベリオンが僕を殺してくれるはずもないと、納得せざるを得なかった。
「俺がお前を殺す必要なんてないし、それに」
 アベリオンは僕を掴む手を離し、土に接していた部分の汚れを手で払いながら立ち上がった。そして左手を僕の前に突きだし、立ち上がるように促した。
「お前が俺を殺す必要だって、ないんだよ」
 見上げれば今まさに明けきらんとする空の東方が朝焼けに染まっていて、白い雲を染める赤が目の前に立つこいつの目と重なって見えた。
 土足で踏み込まれたのだと感じた。けれどもこの傲岸な侵入者を追い返すだけの確固たる理屈と信念と感情が今の僕からは湧いてこない。しかし、残された闇に転がっているありったけの矜恃をかきあつめて、僕は言葉を発する。
「……おまえが、おまえに、なにがわかる」
 太陽の光を背負い白い髪が輝く様が嫌になるほど眩しくて、僕はこいつとは違うし、こいつは僕とは違うと強く感じる。死と力のみを奉じ、それに殉ずる信者たることで僕は僕を認めることが出来るのだ。誰に肯定されなくても、友から、教師から、親から、全ての人間から糾弾されようとも、僕だけが僕を肯んじることが出来れば生きていけると、そうやって生きていくと誓ったのだ!
「……しらねーよ、お前のことなんてよ」
 手を取ろうとすることのない僕を、奴は伸ばした腕をそのままにじっと待っていた。
「けど、お前のそれは、間違ってるだろう」
 知っている。本当は、自分が間違っていることぐらい、言われなくともわかっている。だけど他にどうすれば良かったんだ? とうの昔に間違ってしまったのだ。取り返しのつかないことだったのだ。戻れないのならそのまま突き進むしかないではないか。そうやってここまで来て、今更それが間違いだったなんて言ってしまったら、これまでの自分全てを否定してしまうではないか。お前はそうやって簡単に言うけれども、それがどれだけ僕にとって屈辱かわかっているのか。誰に何を言われても構わないつもりだったのに、お前に間違いだと指摘されると他の誰よりもはらわたが煮えくりかえり、頭が熱くなり、胸が締め付けられる。
「…………じゃあ、どうすれば、いいんだよ」
 張り詰めた糸が限界にまで達していた。僕の立脚していた地盤はもうぼろぼろだけれども代わりとなる寄辺を知らず、このままここで底に落下していく様がありありと想像出来た。だがしかし僕はそれが怖くて、みっともなく足掻く。
「戻れないんだよ。もう戻れないんだ。死は絶対だ。全てを断ちきり、何もかもを持っていく。簡単に人は死ぬんだ。死は生を軽々と凌駕する、だからそれが一番強くて、一番正しいと、それを信じて僕はここまで来たんだ。今更、間違える前になんて、戻れや、しないんだ」
 だから僕にはこれしかないんだ。幾度も幾度も、夢を見る度自分に言い聞かせてきた言葉を独り言のように並べ立てる。
「別に戻れなんて言ってねーよ」
 僕が縋りつくロープを、アベリオンは一言のもとに切って捨てる。
「だけど、これから行く先は、決められる。河の上でよ、大きな流れに乗っていて、櫂もない舟の上でどうしようもなく途方に暮れることもあるかもしれない。それでも、どうにかこうにかそこらへんに浮いてる板っきれ引っつかんで、必死になって漕いでれば、違う流れに乗ることだって出来るんだ」
 それにだな、と奴は付け加える。
「……死者は戻らねえよ。確かにそれはどうしようもないことに、絶対だ。だけどお前は生きてるんだ。生者が停滞することほど愚かしいことはない。生は死を凌駕する、何故ならば生きてる人間は自分の足で立ち、歩くことができるからだ」
 今時神殿の坊主でもしないようなありふれた説教に僕は大嫌いな偽善――そんなものいつだって僕を救いやしなかった――臭さを感じたのだけれど、アベリオンは確かに今の言葉を全うしたことのある人間だということを思い出し、少なくともこいつの中では欺瞞ではなく確かに真実なのだと、確信をもって答えることが出来た。そうだアベリオン僕はお前のそういうところが大っ嫌いで、ひどく、羨ましかったのだ。
「……どこに歩いていくってんだ」
 精一杯虚勢を張って進んできた道もいまや朧気で行く先が霞んでいる今、生が死に対し勝っているという奴の根拠も僕にとっては怪しいものだった。にもかかわらず奴は何ともないような顔をして、真っ直ぐに、答えた。
「――家に決まってんだろ」
 アベリオンがついに左手で僕の右手首をひっつかみ勢いよく引っ張った。弾みで僕は立ち上がる。そしてそのままさっさと歩き始めたため、僕はつられるような形でその後ろをついていかざるを得なかった。
 そういうことじゃないだろ、と言いかけた矢先、そういうことなのか、と思い直す。アベリオンの理屈に納得するということはまたもこいつに敗北するということで、僕はそれは到底受け入れがたいことだったが、心の何処かでまたあの狭い馬小屋のような家で朝飯が食べられることに安堵していてそんな自分を僕は殴りたくて、胸中がぐちゃぐちゃだった。僕が黙って歩いているのはこいつが腕を引っ張るから仕方なくで別に帰りたいと言った訳じゃない、でも、それとこれとは関係ないが、前を行くこいつが後ろを振り向かないように心から願う。右手が取られて左手に杖を持っている今、顔が隠せない。
 朝焼けが奴の後ろ姿を彩り、僕はただひたすら足を動かしていた。無言のままでいるとひたすら煩雑化した思考の糸が絡まっていきそうで、蓄積した熱のはけ口を求め、僕は口を開いた。
「…………………い」
 絞り出した声は自分でも聞こえるかどうか微妙なところだったため勿論アベリオンが全てを聞き取れることはなかっただろうが、それでも僕が何やら言葉を発したことだけはわかったらしく、何だという顔をして立ち止まりこちらを振り向いた。馬鹿野郎こっち見んじゃねえ。俯かせていた顔からちらと視線だけをあげると僕を見つめる目とかちあい、一秒も保たずすぐに目線を地面に落とした。地に生い茂る草が日の光を嬉しそうに浴びているのを見ながら、僕はやけくそになって叫んだ。
「……僕が作るんだろ!何が食べたいって聞いてるんだ!」
 短い沈黙がその場に降りる。見れば奴は面食らった顔を隠すことなく突っ立っており、僕の台詞が完全に想定外だったことを悟らせる。お前が言ったことじゃねえか、何だよその顔、くそ。
「……えー、あー。えーとだな、その……」
 腰に手をやり考えるポーズをしながらしどろもどろに言葉を濁らせなかなか意味のある言葉を発しない奴に僕はだんだん痺れを切らしてきて、いっそバイオケーキでもぶちこんでやろうかと思ったとき、奴の落ち着いた声が朝の空気を震わせる。
「……何でもいい」
 ああ? なんだそれ本当に暗黒料理くらわせてやろうか、と半ば八つ当たり気味な苛立ちを抱え奴を睨む。だが、静かな眼差しが僕を捉える。
「お前も食べるんだろ」
 当たり前のことだ。昨日まで当たり前だったことだ。その当たり前を肯定するのに僕はためらい、けれど、たっぷりの逡巡ののちに小さく頷いた。
「なら、何でもいい」
 奴は再び同じ事を繰り返してから足を踏みだし、僕もそれに合わせる。ほとんど隣に並んで歩きはじめたためもはやこいつが僕の手首を掴む必要性は限りなくゼロだが、それでもこいつは離さなかったし、僕も離せとは言わなかった。
 伝わる熱を不快に思うことはもうなかった。


 うざったいくらいの朝の陽光が目に刺さる。枕代わりの本から頭を起こし隣を見ればアホな寝顔を晒しながらのさばる奴が目に入り、とりあえず蹴りたい衝動に駆られる。自身はもう大分この窮屈な環境に慣れたためベッドの半分だけを使って寝るのもお手の物で特に体が軋むこともないが、それに比例してこいつは半分に分けた領地に留まらずこちらの陣地まで侵入してくるようになったような気がする。あんまり調子に乗るようならそのうち締め上げなければいけないが、まあ、今日のところは見逃してやろう。朝っぱらから喧嘩を売るには今日はだるい。目は開いたものの頭は未だ働かない。緩く思考を転がしはじめるが体はまったくもって動かす気にならず、仰向けの状態でなかば無意識に手持ちの本を両手で持ち上げて読み始める。西シーウァからの輸入品であるこの書籍はアベリオンが気に入っただけはあるほどに僕にとってはクソつまらない本で、一度退散したはずの睡魔が再び僕の眼球にじりじりと忍び寄る。このままもう一度意識を手放すのもいいかもしれないと感じ、僕は本を読みかけのところで開いたまま日差しよけに顔にかぶせる。いい感じに眠気が脳味噌に行き渡ったところでこのままでは枕がないことに気づき、しかしこの日差しの中本を顔から取り除く気にもならず、さてどうしようかと思案したところで肘に隣の人間の腹が触れた。丁度良い。先に領土侵入をしてきたのはあちらの方だし、文句も出ないだろう。僕はずりずりと体を下に動かし、それから出来る限り斜めにして頭を寄せた。まあこんなものだろ、というところで動くのをやめ、首にじわじわと同化する体温を感じながら、僕は眠りの底に落ちた。
 これだけあたたかければ、きっと夢は見ない。僕はそう思った。